ほ》は不幸《ふかう》なる内心《ないしん》の煩悶《はんもん》と、長日月《ちやうじつげつ》の恐怖《きようふ》とにて、苛責《さいな》まれ拔《ぬ》いた心《こゝろ》を、鏡《かゞみ》に寫《うつ》したやうに現《あら》はしてゐるのに。其廣《そのひろ》い骨張《ほねば》つた顏《かほ》の動《うご》きは、如何《いか》にも變《へん》で病的《びやうてき》で有《あ》つて。然《しか》し心《こゝろ》の苦痛《くつう》にて彼《かれ》の顏《かほ》に印《いん》せられた緻密《ちみつ》な徴候《ちようこう》は、一|見《けん》して智慧《ちゑ》ありさうな、教育《けういく》ありさうな風《ふう》に思《おも》はしめた。而《さう》して其眼《そのめ》には暖《あたゝか》な健全《けんぜん》な輝《かゞやき》がある、彼《かれ》はニキタを除《のぞ》くの外《ほか》は、誰《たれ》に對《たい》しても親切《しんせつ》で、同情《どうじやう》が有《あ》つて、謙遜《けんそん》であつた。同室《どうしつ》で誰《だれ》かゞ釦鈕《ぼたん》を落《おと》したとか匙《さじ》を落《おと》したとか云《い》ふ場合《ばあひ》には、彼《かれ》が先《ま》づ寐臺《ねだい》から起《おき》上《あが》つて、取《と》つて遣《や》る。毎朝《まいあさ》起《おき》ると同室《どうしつ》の者等《ものら》にお早《はや》うと云《い》ひ、晩《ばん》には又《また》お休息《やすみ》なさいと挨拶《あいさつ》もする。
彼《かれ》の發狂者《はつきやうしや》らしい所《ところ》は、始終《しゞゆう》氣《き》の張《は》つた樣子《やうす》と、變《へん》な眼付《めつき》とをするの外《ほか》に、時折《ときをり》、晩《ばん》になると、着《き》てゐる病院服《びやうゐんふく》の前《まへ》を神經的《しんけいてき》に掻合《かきあ》はせると思《おも》ふと、齒《は》の根《ね》も合《あ》はぬまでに全身《ぜんしん》を顫《ふる》はし、隅《すみ》から隅《すみ》へと急《いそ》いで歩《あゆ》み初《はじ》める、丁度《ちやうど》激《はげ》しい熱病《ねつびやう》にでも俄《にはか》に襲《おそ》はれたやう。と、施《やが》て立留《たちとゞま》つて室内《しつない》の人々《ひと/″\》を※[#「目+旬」、第3水準1−88−80]《みまは》して昂然《かうぜん》として今《いま》にも何《なに》か重大《ぢゆうだい》な事《こと》を云《い》はんとするやうな身構《みがま》へをする。が、又《また》直《たゞち》に自分《じぶん》の云《い》ふ事《こと》を聽《き》く者《もの》は無《な》い、其《そ》の云《い》ふ事《こと》が解《わか》るものは無《な》いとでも考《かんが》へ直《なほ》したかのやうに燥立《いらだ》つて、頭《あたま》を振《ふ》りながら又《また》歩《ある》き出《だ》す。然《しか》るに言《い》はうと云《い》ふ望《のぞみ》は、終《つひ》に消《き》えず忽《たちまち》にして總《すべて》の考《かんがへ》を壓去《あつしさ》つて、此度《こんど》は思《おも》ふ存分《ぞんぶん》、熱切《ねつせつ》に、夢中《むちゆう》の有樣《ありさま》で、言《ことば》が迸《ほとばし》り出《で》る。言《い》ふ所《ところ》は勿論《もちろん》、秩序《ちつじよ》なく、寐言《ねごと》のやうで、周章《あわて》て見《み》たり、途切《とぎ》れて見《み》たり、何《なん》だか意味《いみ》の解《わか》らぬことを言《い》ふのであるが、何處《どこ》かに又《また》善良《ぜんりやう》なる性質《せいしつ》が微《ほのか》に聞《きこ》える、其言《そのことば》の中《うち》か、聲《こゑ》の中《うち》かに、而《さう》して彼《かれ》の瘋癲者《ふうてんしや》たる所《ところ》も、彼《かれ》の人格《じんかく》も亦《また》見《み》える。其意味《そのいみ》の繋《つな》がらぬ、辻妻《つじつま》の合《あ》はぬ話《はなし》は、所詮《しよせん》筆《ふで》にする事《こと》は出來《でき》ぬのであるが、彼《かれ》の云《い》ふ所《ところ》を撮《つま》んで云《い》へば、人間《にんげん》の卑劣《ひれつ》なること、壓制《あつせい》に依《よ》りて正義《せいぎ》の蹂躙《じうりん》されてゐること、後世《こうせい》地上《ちじやう》に來《きた》るべき善美《ぜんび》なる生活《せいくわつ》のこと、自分《じぶん》をして一|分《ぷん》毎《ごと》にも壓制者《あつせいしや》の殘忍《ざんにん》、愚鈍《ぐどん》を憤《いきどほ》らしむる所《ところ》の、窓《まど》の鐵格子《てつがうし》のことなどである。云《い》はゞ彼《かれ》は昔《むかし》も今《いま》も全《まつた》く歌《うた》ひ盡《つく》されぬ歌《うた》を、不順序《ふじゆんじよ》に、不調和《ふてうわ》に組立《くみたて》るのである。
(二)
今《いま》から大凡《おほよそ》十三四|年《ねん》以前《いぜん》、此《こ》の町《まち》の一|番《ばん》の大通《おほどほり》に、自分《じぶん》の家《いへ》を所有《も》つてゐたグロモフと云《い》ふ、容貌《ようばう》の立派《りつぱ》な、金滿《かねもち》の官吏《くわんり》が有《あ》つて、家《いへ》にはセルゲイ及《およ》びイワンと云《い》ふ二人《ふたり》の息子《むすこ》もある。所《ところ》が、長子《ちやうし》のセルゲイは丁度《ちやうど》大學《だいがく》の四|年級《ねんきふ》になつてから、急性《きふせい》の肺病《はいびやう》に罹《かゝ》り死亡《しばう》して了《しま》ふ。是《これ》よりグロモフの家《いへ》には、不幸《ふかう》が引續《ひきつゞ》いて來《き》てセルゲイの葬式《さうしき》の終《す》んだ一|週間《しうかん》目《め》、父《ちゝ》のグロモフは詐欺《さぎ》と、浪費《らうひ》との件《かど》を以《もつ》て裁判《さいばん》に渡《わた》され、間《ま》もなく監獄《かんごく》の病院《びやうゐん》でチブスに罹《かゝ》つて死亡《しばう》して了《しま》つた。で、其家《そのいへ》と總《すべて》の什具《じふぐ》とは、棄賣《すてうり》に拂《はら》はれて、イワン、デミトリチと其母親《そのはゝおや》とは遂《つひ》に無《む》一|物《ぶつ》の身《み》となつた。
父《ちゝ》の存命中《ぞんめいちゆう》には、イワン、デミトリチは大學《だいがく》修業《しうげふ》の爲《ため》にペテルブルグに住《す》んで、月々《つき/″\》六七十|圓《ゑん》づゝも仕送《しおくり》され、何《なに》不自由《ふじいう》なく暮《くら》してゐたものが、忽《たちまち》にして生活《くらし》は一|變《ぺん》し、朝《あさ》から晩《ばん》まで、安値《あんちよく》の報酬《はうしう》で學科《がくくわ》を教授《けうじゆ》するとか、筆耕《ひつかう》をするとかと、奔走《ほんそう》をしたが、其《そ》れでも食《く》ふや食《く》はずの儚《はか》なき境涯《きやうがい》。僅《わづか》な收入《しうにふ》は母《はゝ》の給養《きふやう》にも供《きよう》せねばならず、彼《かれ》は遂《つひ》に此《こ》の生活《せいくわつ》には堪《た》へ切《き》れず、斷然《だんぜん》大學《だいがく》を去《さ》つて、古郷《こきやう》に歸《かへ》つた。而《さう》して程《ほど》なく或人《あるひと》の世話《せわ》で郡立學校《ぐんりつがくかう》の教師《けうし》となつたが、其《そ》れも暫時《ざんじ》、同僚《どうれう》とは折合《をりあ》はず、生徒《せいと》とは親眤《なじ》まず、此《こゝ》をも亦《また》辭《じ》して了《しま》ふ。其中《そのうち》に母親《はゝおや》は死《し》ぬ。彼《かれ》は半年《はんとし》も無職《むしよく》で徘徊《うろ/\》して唯《たゞ》パンと、水《みづ》とで生命《いのち》を繋《つな》いでゐたのであるが、其後《そのご》裁判所《さいばんしよ》の警吏《けいり》となり、病《やまひ》を以《もつ》て後《のち》に此《こ》の職《しよく》を辭《じ》するまでは、此《こゝ》に務《つとめ》を取《と》つてゐたのであつた。
彼《かれ》は學生時代《がくせいじだい》の壯年《さうねん》の頃《ごろ》でも、生得《せいとく》餘《あま》り壯健《さうけん》な身體《からだ》では無《な》かつた。顏色《かほいろ》は蒼白《あをじろ》く、姿《すがた》は瘠《や》せて、初中終《しよつちゆう》風邪《かぜ》を引《ひ》き易《やす》い、少食《せうしよく》で落々《おち/\》眠《ねむ》られぬ質《たち》、一|杯《ぱい》の酒《さけ》にも眼《め》が廻《まは》り、往々《まゝ》ヒステリーが起《おこ》るのである。人《ひと》と交際《かうさい》する事《こと》は彼《かれ》は至《いた》つて好《この》んでゐたが、其神經質《そのしんけいしつ》な、刺激《しげき》され易《やす》い性質《せいしつ》なるが故《ゆゑ》に、自《みづか》ら務《つと》めて誰《たれ》とも交際《かうさい》せず、隨《したがつ》て亦《また》親友《しんいう》をも持《も》たぬ。町《まち》の人々《ひと/″\》の事《こと》は彼《かれ》は毎《いつ》も輕蔑《けいべつ》して、無教育《むけういく》の徒《と》、禽獸的生活《きんじうてきせいくわつ》と罵《のゝし》つて、テノルの高聲《たかごゑ》で燥立《いらだ》つてゐる。彼《かれ》が物《もの》を言《い》ふのは憤懣《ふんまん》の色《いろ》を以《もつ》てせざれば、欣喜《きんき》の色《いろ》を以《もつ》て、何事《なにごと》も熱心《ねつしん》に言《い》ふのである。で、其言《そのい》ふ所《ところ》は終《つひ》に一つ事《こと》に歸《き》して了《しま》ふ。町《まち》で生活《せいくわつ》するのは好《この》ましく無《な》い。社會《しやくわい》には高尚《かうしやう》なる興味《インテレース》が無《な》い。社會《しやくわい》は曖昧《あいまい》な、無意味《むいみ》な生活《せいくわつ》を爲《な》して居《ゐ》る。壓制《あつせい》、僞善《ぎぜん》、醜行《しうかう》を逞《たくまし》うして、以《も》つて是《これ》を紛《まぎ》らしてゐる。是《こゝ》に於《おい》てか奸物共《かんぶつども》は衣食《いしよく》に飽《あ》き、正義《せいぎ》の人《ひと》は衣食《いしよく》に窮《きう》する。廉直《れんちよく》なる方針《はうしん》を取《と》る地方《ちはう》の新聞紙《しんぶんし》、芝居《しばゐ》、學校《がくかう》、公會演説《こうくわいえんぜつ》、教育《けういく》ある人間《にんげん》の團結《だんけつ》、是等《これら》は皆《みな》必要《ひつえう》缺《か》ぐ可《べ》からざるものである。又《また》社會《しやくわい》自《みづか》ら悟《さと》つて驚《おどろ》くやうに爲《し》なければならぬとか抔《など》との事《こと》で。彼《かれ》は其眼中《そのがんちゆう》に社會《しやくわい》の人々《ひと/″\》を唯《たゞ》二|種《しゆ》に區別《くべつ》してゐる、義者《ぎしや》と、不義者《ふぎしや》と、而《さう》して婦人《ふじん》の事《こと》、戀愛《れんあい》の事《こと》に就《つ》いては、毎《いつ》も自《みづか》ら深《ふか》く感《かん》じ入《い》つて説《と》くのであるが、偖《さて》自身《じしん》には未《いま》だ一|度《ど》も戀愛《れんあい》てふものを味《あぢは》ふた事《こと》は無《な》いので。
彼《かれ》は恁《か》くも神經質《しんけいしつ》で、其議論《そのぎろん》は過激《くわげき》であつたが、町《まち》の人々《ひと/″\》は其《そ》れにも拘《かゝは》らず彼《かれ》を愛《あい》して、ワアニア、と愛嬌《あいけう》を以《もつ》て呼《よ》んでゐた。彼《かれ》が天性《てんせい》の柔《やさ》しいのと、人《ひと》に親切《しんせつ》なのと、禮儀《れいぎ》の有《あ》るのと、品行《ひんかう》の方正《はうせい》なのと、着古《きぶる》したフロツクコート、病人《びやうにん》らしい樣子《やうす》、家庭《かてい》の不遇《ふぐう》、是等《これら》は皆《みな》總《すべ》て人々《ひと/″\》に温《あたゝか》き同情《どうじやう》を引起《ひきおこ》さしめたのであつた。又《また》一|面《めん》には彼《かれ》は立派《りつぱ》な教育《けういく》を受《う》け、博學《はくがく》多識《たしき》で、何《な》んでも知《し》つてゐると町《まち》の人《
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