》は其丈《それだけ》にして立上《たちあが》り、彼《かれ》と別《わか》れて郵便局《いうびんきよく》を出《で》た。
 丁度《ちやうど》其日《そのひ》の夕方《ゆうがた》、ドクトル、ハヾトフは例《れい》の毛皮《けがは》の外套《ぐわいたう》に、深《ふか》い長靴《ながぐつ》、昨日《きのふ》は何事《なにごと》も無《な》かつたやうな顏《かほ》で、アンドレイ、エヒミチを其宿《そのやど》に訪問《たづ》ねた。
『貴方《あなた》に少々《せう/\》お願《ねがひ》が有《あ》つて出《で》たのですが、何卒《どうぞ》貴方《あなた》は私《わたくし》と一つ立合診察《たちあひしんさつ》を爲《し》ては下《くだ》さらんか、如何《いかゞ》でせう。』と、然《さ》り氣《き》なくハヾトフは云《い》ふ。
 アンドレイ、エヒミチはハヾトフが自分《じぶん》を散歩《さんぽ》に誘《さそ》つて氣晴《きばらし》を爲《さ》せやうと云《い》ふのか、或《あるひ》は又《また》自分《じぶん》に那樣仕事《そんなしごと》を授《さづ》けやうと云《い》ふ意《つもり》なのかと考《かんが》へて、左《と》に右《かく》服《ふく》を着換《きか》へて共《とも》に通《とほり》に出《で》たのである。彼《かれ》はハヾトフが昨日《きのふ》の事《こと》は噫《おくび》にも出《だ》さず、且《か》つ氣《き》にも掛《か》けてゐぬやうな樣子《やうす》を見《み》て、心中《しんちゆう》一方《ひとかた》ならず感謝《かんしや》した。這麼非文明的《こんなひぶんめいてき》な人間《にんげん》から、恁《かゝ》る思遣《おもひや》りを受《う》けやうとは、全《まつた》く意外《いぐわい》で有《あ》つたので。
『貴方《あなた》の有仰《おつしや》る病人《びやうにん》は何處《どこ》なのです?』アンドレイ、エヒミチは問《と》ふた。
『病院《びやうゐん》です、もう疾《と》うから貴方《あなた》にも見《み》て頂《いたゞ》き度《たい》と思《おも》つてゐましたのですが……妙《めう》な病人《びやうにん》なのです。』
 施《やが》て病院《びやうゐん》の庭《には》に入《い》り、本院《ほんゐん》を一周《ひとまはり》して瘋癲病者《ふうてんびやうしや》の入《い》れられたる別室《べつしつ》に向《むか》つて行《い》つた。ハヾトフは其間《そのあひだ》何故《なにゆゑ》か默《もく》した儘《まゝ》、さツさ[#「さツさ」に傍点]と六|號室《がうしつ》へ這入《はひ》つて行《い》つたが、ニキタは例《れい》の通《とほ》り雜具《がらくた》の塚《つか》の上《うへ》から起上《おきあが》つて、彼等《かれら》に禮《れい》をする。
『肺《はい》の方《はう》から來《き》た病人《びやうにん》なのですがな。』とハヾトフは小聲《こごゑ》で云《い》ふた。『や、私《わたし》は聽診器《ちやうしんき》を忘《わす》れて來《き》た、直《す》ぐ取《と》つて來《き》ますから、些《ちよつ》と貴方《あなた》は此處《こゝ》でお待《ま》ち下《くだ》さい。』
と彼《かれ》はアンドレイ、エヒミチを此《こゝ》に一人《ひとり》殘《のこ》して立去《たちさ》つた。

       (十七)

 日《ひ》は已《すで》に沒《ぼつ》した。イワン、デミトリチは顏《かほ》を枕《まくら》に埋《うづ》めて寐臺《ねだい》の上《うへ》に横《よこ》になつてゐる。中風患者《ちゆうぶくわんじや》は何《なに》か悲《かな》しさうに靜《しづか》に泣《な》きながら、唇《くちびる》を動《うご》かしてゐる。肥《ふと》つた農夫《のうふ》と、郵便局員《いうびんきよくゐん》とは眠《ねむ》つてゐて、六|號室《がうしつ》の内《うち》は闃《げき》として靜《しづか》かであつた。
 アンドレイ、エヒミチは、イワン、デミトリチの寐臺《ねだい》の上《うへ》に腰《こし》を掛《か》けて、大約《おほよそ》半時間《はんじかん》も待《ま》つてゐると、室《へや》の戸《と》は開《あ》いて、入《はひ》つて來《き》たのはハヾトフならぬ小使《こづかひ》のニキタ。病院服《びやうゐんふく》、下着《したぎ》、上靴抔《うはぐつなど》、小腋《こわき》に抱《かゝ》へて。
『何卒《どうぞ》閣下《かくか》是《これ》をお召《め》し下《くだ》さい。』と、ニキタは前院長《ぜんゐんちやう》の前《まへ》に立《た》つて丁寧《ていねい》に云《い》ふた。『那《あれ》が閣下《かくか》のお寐臺《ねだい》で。』と、彼《かれ》は更《さら》に新《あたら》しく置《おか》れた寐臺《ねだい》の方《はう》を指《さ》して。『何《なん》でも有《あ》りませんです。必《かなら》ず直《すぐ》に御全快《ごぜんくわい》になられます。』
 アンドレイ、エヒミチは是《こゝ》に至《いた》つて初《はじ》めて讀《よ》めた。一|言《ごん》も言《い》はずに彼《かれ》はニキタの示《しめ》した寐臺《ねだい》に移《うつ》り、ニキタが立《た》つて待《ま》つてゐるので、直《す》ぐに着《き》てゐた服《ふく》をすツぽり[#「すツぽり」に傍点]と脱《ぬ》ぎ棄《す》て、病院服《びやうゐんふく》に着替《きか》へて了《しま》つた。シヤツは長《なが》し、ヅボン下《した》は短《みじ》かし、上着《うはぎ》は魚《さかな》の燒《や》いた臭《にほひ》がする。『屹度《きつと》間《ま》もなくお直《なほ》りでせう。』と、ニキタは復《また》云《い》ふてアンドレイ、エヒミチの脱捨《ぬぎすて》た服《ふく》を一纏《ひとまと》めにして、小腋《こわき》に抱《かか》へた儘《まゝ》、戸《と》を閉《た》てゝ行《ゆ》く。
『奈何《どう》でも可《い》い……。』と、アンドレイ、エヒミチは體裁《きまり》惡《わる》さうに病院服《びやうゐんふく》の前《まへ》を掻合《かきあ》はせて、さも囚人《しうじん》のやうだと思《おも》ひながら、『奈何《どう》でも可《い》いわ……燕尾服《えんびふく》だらうが、軍服《ぐんぷく》だらうが、此《こ》の病院服《びやうゐんふく》だらうが、同《おな》じ事《こと》だ。』
『然《しか》し時計《とけい》は奈何《どう》したらう、其《そ》れからポツケツトに入《い》れて置《お》いた手帳《てちやう》も、卷莨《まきたばこ》も、や、ニキタはもう着物《きもの》を悉皆《のこらず》持《も》つて行《い》つた。いや入《い》らん、もう死《し》ぬ迄《まで》、ヅボンや、チヨツキ、長靴《ながぐつ》には用《よう》が無《な》いのかも知《し》れん。然《しか》し奇妙《きめう》な成行《なりゆき》さ。』と、アンドレイ、エヒミチは今《いま》も猶《なほ》此《こ》の六|號室《がうしつ》と、ベローワの家《いへ》と何《なん》の異《かは》りも無《な》いと思《おも》ふてゐたが、奈何云《どうい》ふものか、手足《てあし》は冷《ひ》えて、顫《ふる》へてイワン、デミトリチが今《いま》にも起《お》きて自分《じぶん》の此《こ》の姿《すがた》を見《み》て、何《なん》とか思《おも》ふだらうと恐《おそろ》しいやうな氣《き》もして、立《た》つたり、居《ゐ》たり、又《また》立《た》つたり、歩《ある》いたり、やうやく半時間《はんじかん》、一|時間計《じかんばかり》も坐《すわ》つてゐて見《み》たが、悲《かな》しい程《ほど》退屈《たいくつ》になつて來《き》て、奈何《どう》して這麼處《こんなところ》に一|週間《しうかん》とゐられやう、况《ま》して一|年《ねん》、二|年《ねん》など到底《たうてい》辛棒《しんぼう》をされるものでないと思《おも》ひ付《つ》いた。さう思《おも》へば益※[#二の字点、1−2−22]《ます/\》居堪《ゐたま》らず、衝《つ》と立《た》つて隅《すみ》から隅《すみ》へと歩《ある》いて見《み》る。『さうしてから奈何《どう》する、あゝ到底《たうてい》居堪《ゐたゝま》らぬ、這麼風《こんなふう》で一|生《しやう》!』
 彼《かれ》はどつかり坐《すわ》つた、横《よこ》になつたが又《また》起直《おきなほ》る。而《さう》して袖《そで》で額《ひたひ》に流《なが》れる冷汗《ひやあせ》を拭《ふ》いたが顏中《かほぢゆう》燒魚《やきざかな》の腥※[#「月+亶」、第3水準1−90−52]《なまぐさ》い臭《にほひ》がして來《き》た。彼《かれ》は又《また》歩《ある》き出《だ》す。『何《なに》かの間違《まちが》ひだらう……話合《はなしあ》つて見《み》にや解《わか》らん、屹度《きつと》誤解《ごかい》が有《あ》るのだ。』
 イワン、デミトリチはふと眼《め》を覺《さま》し、脱然《ぐつたり》とした樣子《やうす》で兩《りやう》の拳《こぶし》を頬《ほゝ》に突《つ》く。唾《つば》を吐《は》く。初《はじ》め些《ちよつ》と彼《かれ》には前院長《ぜんゐんちやう》に氣《き》が付《つ》かぬやうで有《あ》つたが施《やが》て其《そ》れと見《み》て、其寐惚顏《そのねぼけがほ》には忽《たちま》ち冷笑《れいせう》が浮《うか》んだので。
『あゝ貴方《あなた》も此《こゝ》へ入《い》れられましたのですか。』と彼《かれ》は嗄《しはが》れた聲《こゑ》で片眼《かため》を細《ほそ》くして云《い》ふた。『いや結構《けつこう》、散々《さん/″\》人《ひと》の血《ち》を恁《か》うして吸《す》つたから、此度《こんど》は御自分《ごじぶん》の吸《す》はれる番《ばん》だ、結構々々《けつこう/\》。』
『何《なに》かの多分《たぶん》間違《まちがひ》です。』とアンドレイ、エヒミチは肩《かた》を縮《ちゞ》めて云《い》ふ。『間違《まちがひ》に相違《さうゐ》ないです。』
 イワン、デミトリチは又《また》も床《ゆか》に唾《つば》を吐《は》いて、横《よこ》になり、而《さう》して呟《つぶや》いた。『えゝ、生甲斐《いきがひ》の無《な》い生活《せいくわつ》だ、如何《いか》にも殘念《ざんねん》な事《こと》だ、此《こ》の苦痛《くつう》な生活《せいくわつ》がオペラにあるやうな、アポテオズで終《をは》るのではなく、是《これ》があゝ死《し》で終《をは》るのだ。非人《ひにん》が來《き》て、死者《ししや》の手《て》や、足《あし》を捉《とら》へて穴《あな》の中《なか》に引込《ひきこ》んで了《しま》ふのだ、うツふ! だが何《なん》でもない……其換《そのかは》り俺《おれ》は彼《あ》の世《よ》から化《ば》けて來《き》て、此處《こゝ》らの奴等《やつら》を片端《かたツぱし》から嚇《おど》して呉《く》れる、皆《みんな》白髮《しらが》にして了《しま》つて遣《や》る。』
 折《をり》しもモイセイカは外《そと》から歸《かへ》り來《きた》り、其處《そこ》に前院長《ぜんゐんちやう》のゐるのを見《み》て、直《すぐ》に手《て》を延《のば》し、
『一|錢《せん》お呉《くん》なさい!』

       (十八)

 アンドレイ、エヒミチは窓《まど》の所《ところ》に立《た》つて外《そと》を眺《なが》むれば、日《ひ》はもうとツぷり[#「とツぷり」に傍点]と暮《く》れ果《は》てゝ、那方《むかふ》の野廣《のびろ》い畑《はた》は暗《くら》かつたが、左《ひだり》の方《はう》の地平線上《ちへいせんじやう》より、今《いま》しも冷《つめ》たい金色《こんじき》の月《つき》が上《のぼ》る所《ところ》、病院《びやうゐん》の塀《へい》から百|歩計《ぽばか》りの處《ところ》に、石《いし》の牆《かき》の繞《めぐ》らされた高《たか》い、白《しろ》い家《いへ》が見《み》える。是《これ》は監獄《かんごく》で有《あ》る。
『是《これ》が現實《げんじつ》と云《い》ふものか。』アンドレイ、エヒミチは思《おも》はず慄然《ぞつ》とした。
 凄然《せいぜん》たる月《つき》、塀《へい》の上《うへ》の釘《くぎ》、監獄《かんごく》、骨燒場《ほねやきば》の遠《とほ》い焔《ほのほ》、アンドレイ、エヒミチは有繋《さすが》に薄氣味惡《うすきみわる》い感《かん》に打《う》たれて、しよんぼり[#「しよんぼり」に傍点]と立《た》つてゐる。と直後《すぐうしろ》に、吐《ほつ》と計《ばか》り溜息《ためいき》の聲《こゑ》がする。振返《ふりかへ》れば胸《むね》に光《ひか》る徽章《きしやう》やら、勳章《くんしやう》やらを下《さ》げた男《をとこ》が、ニヤリと計
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