くらゐ》。イワン、デミトリチは初《はじ》めの中《うち》は院長《ゐんちやう》が野心《やしん》でも有《あ》るのでは無《な》いかと疑《うたが》つて、彼《かれ》に左右《とかく》遠《とほ》ざかつて、不愛想《ぶあいさう》にしてゐたが、段々《だん/\》慣《な》れて、遂《つひ》には全《まつた》く素振《そぶり》を變《か》へたので有《あ》つた。
然《しか》るに病院《びやうゐん》の中《うち》では院長《ゐんちやう》アンドレイ、エヒミチが六|號室《がうしつ》に切《しきり》に通《かよ》ひ出《だ》したのを怪《あやし》んで、其評判《そのひやうばん》が高《たか》くなり、代診《だいしん》も、看護婦《かんごふ》も、一|樣《やう》に何《なん》の爲《ため》に行《ゆ》くのか、何《なん》で數時間餘《すうじかんよ》も那麼處《あんなところ》にゐるのか、甚麼話《どんなはなし》を爲《す》るので有《あ》らうか、彼處《かしこ》へ行《い》つても處方書《しよはうがき》を示《しめ》さぬでは無《な》いかと、彼方《あつち》でも、此方《こつち》でも、彼《かれ》が近頃《ちかごろ》の奇《き》なる擧動《きよどう》の評判《ひやうばん》で持切《もちき》つてゐる始末《しまつ》。ミハイル、アウエリヤヌヰチは此頃《このごろ》では始終《しゞゆう》彼《かれ》の留守《るす》に計《ばか》り行《ゆ》く。ダリユシカは旦那《だんな》が近頃《ちかごろ》は定刻《ていこく》に麥酒《ビール》を呑《の》まず、中食迄《ちゆうじきまで》も晩《おく》れることが度々《たび/\》なので困却《こま》つてゐる。
或時《あるとき》六|月《ぐわつ》の末《すゑ》、ドクトル、ハヾトフは、院長《ゐんちやう》に用事《ようじ》が有《あ》つて、其室《そのへや》に行《い》つた所《ところ》、居《を》らぬので庭《には》へと探《さが》しに出《で》た。すると其處《そこ》で院長《ゐんちやう》は六|號室《がうしつ》で有《あ》ると聞《き》き、庭《には》から直《すぐ》に別室《べつしつ》に入《い》り、玄關《げんくわん》の間《ま》に立留《たちとゞま》ると、丁度《ちやうど》恁云《かうい》ふ話聲《はなしごゑ》が聞《きこ》えたので。
『我々《われ/\》は到底《たうてい》合奏《がつそう》は出來《でき》ません、私《わたくし》を貴方《あなた》の信仰《しんかう》に歸《き》せしむる譯《わけ》には行《ゆ》きませんから。』
と、イワン、デミトリチの聲《こゑ》。
『現實《げんじつ》と云《い》ふ事《こと》は全《まつた》く貴方《あなた》には解《わか》らんのです、貴方《あなた》は未嘗《いまだかつ》て苦《くるし》んだ事《こと》は無《な》いのですから。然《しか》し私《わたくし》は生《うま》れた其日《そのひ》より今日迄《こんにちまで》、絶《た》えず苦痛《くつう》を嘗《な》めてゐるのです、其故《それゆゑ》私《わたくし》は自分《じぶん》を貴方《あなた》よりも高《たか》いもの、萬事《ばんじ》に於《おい》て、より多《おほ》く精通《せいつう》してゐるものと認《みと》めて居《を》るです。ですから貴方《あなた》が私《わたくし》に教《をし》へると云《い》ふ場合《ばあひ》で無《な》いのです。』
『私《わたくし》は何《なに》も貴方《あなた》を自分《じぶん》の信仰《しんかう》に向《むか》はせやうと云《い》ふ權利《けんり》を主張《しゆちやう》はせんのです。』院長《ゐんちやう》は自分《じぶん》を解《わか》つて呉《く》れ人《て》の無《な》いので、さも殘念《ざんねん》と云《い》ふやうに。『然云《さうい》ふ譯《わけ》では無《な》いのです、其《そ》れは貴方《あなた》が苦痛《くつう》を嘗《な》めて、私《わたくし》が嘗《な》めないといふことではないのです。詮《せん》ずる所《ところ》、苦痛《くつう》も快樂《くわいらく》も移《うつ》り行《ゆ》くもので、那樣事《そんなこと》は奈何《どう》でも可《い》いのです。で、私《わたくし》が言《い》はうと思《おも》ふのは、貴方《あなた》と私《わたくし》とが思想《しさう》するもの、相共《あひとも》に思想《しさう》したり、議論《ぎろん》を爲《し》たりする力《ちから》が有《あ》るものと認《みと》めてゐるといふことです。縱令《たとひ》我々《われ/\》の意見《いけん》が何《ど》の位《くらゐ》違《ちが》つても、此《こゝ》に我々《われ/\》の一|致《ち》する所《ところ》があるのです。貴方《あなた》が若《も》し私《わたくし》が一|般《ぱん》の無智《むち》や、無能《むのう》や、愚鈍《ぐどん》を何《ど》れ程《ほど》に厭《いと》ふて居《を》るかと知《し》つて下《くだ》すつたならば、又《また》如何《いか》なる喜《よろこび》を以《もつ》て、恁《か》うして貴方《あなた》と話《はなし》をしてゐるかと云《い》ふ事《こと》を知《し》つて下《くだ》すつたな
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