ーヴィチは名残りの一瞥をメステーチキ村へ送ったが、するとまるで、とても馴染みの深い親しい人に別れでもするような、ひどく遣瀬《やるせ》ない気持になってしまった。
さて眼を返して行手に横たわっているものを眺めれば、それはみんなとうの昔からお馴染みの、さっぱり面白くない光景ばかりだった。右を見ても左を見ても、まだ背丈の低いライ麦の畑と蕎麦畑で、白嘴烏がぴょんぴょん跳ねているばかり。前方を眺めれば、見えるのは埃と後《うしろ》あたまの行列だし、あとを振向いても、見えるのは同じ埃と人の顔だけだった。……一ばん先頭には刀《とう》を手にした四人の男が足並そろえてゆく――これが前衛だ。その後には軍歌隊の一団がつづき、軍歌隊のあとには乗馬の喇叭隊が進む。前衛と軍歌隊は、葬列の松明《たいまつ》持ちがよくやる伝で、のべつに正規の距離のことを失念して、ずんずん前へ出てしまう。……リャボーヴィチは第五中隊の第一砲車についている。彼には前に進んでゆく四つの中隊が残らず見える。軍人でない人が見たら、行進中の旅団があらわすようなこの長ったらしい重苦しい行列は、やけに七面倒くさい、ほとんど了解に苦しむごしゃごしゃ騒ぎに見えるのが常だ。どうしたわけで一門の大砲のまわりにこんなに大勢くっついているのやら、どうしてこんなに沢山の馬が、てんでに変てこな輓具でがんじがらめにされながら、一門の砲をえっさらおっさら曳きずって、まるでその砲が実際それほど重たい怖るべき代物であるかのような騒ぎを演じているのやら、そこがわからないのである。ところが、リャボーヴィチは何から何までわかり切っているので、さればこそ頗るもってつまらないのである。どうして各中隊の先頭には、士官と轡《くつわ》を並べてがっしりした砲兵下士が一人馬を進ませているのか、なぜこの下士が『前駆』と呼ばれているのか、なんていう事はとうの昔に知り抜いている。この下士のすぐうしろには第一挽索の乗馬兵、それから中部挽索の乗馬兵の姿が見える。リャボーヴィチは、彼らの乗っている左手の馬が驂馬と呼ばれ、右手のが副馬と呼ばれることも承知しているが――これまたすこぶる詰らんことである。そうした乗馬兵のうしろには二頭の後馬がつづく。その一頭には、昨日の埃を背中にかぶったままの兵が跨がって、不恰好な、とても滑稽な木製の脛当《はぎあて》を右の足にくっつけている。リャボーヴィチはこの脛当の役目を知っているので、彼には別に滑稽ともなんとも思えない。馬上の兵たち……いやしくもそこにいる限りの者は残らず、機械的に革鞭を振りあげたり、時おり大声を張りあげたりしている。御本尊の大砲にしてからが、みっともない恰好だった。砲の前車には燕麦の袋が積込まれて、それに防水布の覆いがかけてあるし、砲身はというと、べた一面に茶沸かしだの、兵隊の背嚢だの小嚢だのが吊り下げられて、その有様たるやさながらに、どうしたわけだか人間や馬にひしひしと取巻かれてしまっている小っちゃな無害の動物といった恰好である。砲の両側には、風しもの方から、両手をやけに振りながら、六人の砲手がのっしのっしと歩いている。その大砲のあとには、またもや別の前駆や、乗馬兵や、後馬の行列がはじまり、その後からまた別の、といっても最初の奴に劣らずみっともなくもあれば貧相でもある大砲が曳かれてゆく。この第二の砲のあとに第三、第四の砲がつづき、四番目の砲のまわりに将校その他が進んでゆく。旅団には中隊が全部で六個あり、中隊ごとに砲が四門ある。といった次第でこの行列は蜿々四五町にわたっているのだ。殿《しんが》りをつとめるのは輜重《しちょう》で、その傍にさも物思わしげに、ぴょんと長い耳のついた頭をうなだれながら歩いている、一匹の飛切り可愛らしい面つきの畜生があったが――これはマガールという驢馬で、或る中隊長がトルコから連れて来たものだった。
リャボーヴィチは無関心な気持で前や後ろを見やり、後あたまや顔を眺めていた。いつもなら、こっくりこっくりやりだすところだが、今はそれどころではなく、例の新しい愉しい考えごとに耽り込んでいたのだ。最初、旅団が行進を起したばかりの頃は、彼は無理にも自分の心を説き伏せて、あの接吻の一件なんか、面白いにしたところで高々ちょいとした不思議な偶然の出来事だけの話で、本当はくだらん事なのだ、あれを真面目にとやかく考えるなんて、内輪に言ってもまず馬鹿げた話だわい、と思い込もうとしていた。ところが間もなく、彼はそんな理窟をきれいさっぱり振り棄てて、空想に身をゆだねてしまった。……自分がラッベク家の客間で、あの藤色の令嬢と黒服金髪の令嬢とを、半々に突きまぜたような少女と並んで坐っているところを想像に浮べてみたり、かと思うと今度は眼をつぶって、自分がそれとは別人の、ひどく眼鼻だちのはっきりしない、まるっきり見知らぬ少女と一緒にいるところを瞼に描いてみるといった調子で、心の中で話をしたり、愛撫したり、相手の肩へしなだれかかったり、さてはまた、戦争や別離や、その後の再会を思い描いたり、妻と水入らずの夜食の場面や、子供たちを想像してみたりした。……
「ブレーキをかけえ!」という号令が坂を下りるたびにひびき渡った。
彼もやはり『ブレーキをかけえ』と呶鳴るのだったが、その都度、この叫びが自分の空想を破りはしまいか、自分を現実へ呼び戻しはしまいかとびくびくした。……
ある地主の領地の傍を通りかかった時、リャボーヴィチは外周《そとまわ》りの植込みごしに庭を覗いてみた。彼の眼にうつったのは、長い、まるで定規みたいに真直な並木道で、それに黄色い砂が撒いてあり、白樺の若木が両側に植わっていた。……空想におぼれ込んだ人間に現われるあの執念ぶかさで、彼は婦人の小さな足がその黄色い砂を踏んで行くところを念頭に浮べてみたが、すると全く思いがけなく彼の想像裡には、例の自分に接吻した女の面影、ゆうべの夜食の席で彼がやっとこさで心に浮びあがらせたあの女の面影が、くっきりと描き出された。その面影は彼の脳裡におみこしを据えて、もはや二度と再び彼を見すてなかった。
正午になると、後方の輜重のあたりで、こんな叫び声がきこえた。
「歩調とれえ! 頭ァ左! 将校敬礼っ!」〔[#割り注]この号令の前二句は兵卒に対するもの、最後の一句は将校に対するもの[#割り注終わり]〕
二頭の白馬に曳かせた半幌の馬車で、旅団長が通りかかったのである。彼は第二中隊の辺で車をとめて、何やら大声を立てはじめたが、何を言ってるのか誰にもわからなかった。彼をめがけて数名の将校が馬を飛ばせた中に、リャボーヴィチもまじっていた。
「で、どうかな? ええ?」と将軍は訊ねながら、赤い眼をぱちぱちさせた。「病人はあるかな?」
返答を耳にすると、小兵で痩せっぽちの将軍はちょいと口をもぐもぐさせて、何やら思案していたが、やがて一人の将校に向ってこう言った。――
「君の隊の第三砲車の後馬に乗っとる兵は、脛当を外しおってな、所もあろうに前車にぶら下げておるぞ、怪しからん。あいつは処罰したまえ。」
それから眼を上げて、リャボーヴィチの顔にぴたりとつけると、言葉をつづけた。――
「それから君の乗馬の鞦《しりがい》は、どうも長すぎるようだぞ……」
まだそのほかに二三の退屈な注意を与えると、将軍はロブィトコの顔に一瞥をくれて、にやりと笑った。
「それからロブィトコ中尉、君は今日ばかに沈んだ顔をしとるなあ」と彼は言った。「ロプーホヴァ夫人が恋しいかな? どうじゃ? なあ諸君、この男はロプーホヴァが恋しゅうてならんとさ!」
ロプーホヴァというのは頗る肥った頗る背の長い婦人で、もうとうの昔に四十の坂を越していた。将軍は、自分が大柄な女さえ見れば年はどうあろうと食指を動かすたちだったものだから、部下の将校たちにも同様の好みがあるように勘ぐっているのだった。将校たちは恭しくにんまり笑った。旅団長は何はともあれ頗る滑稽な毒舌を一発くらわしたので嬉しくなって、からからと笑いだし、馭者の背中をちょいとつついておいて、挙手の礼をした。馬車は先へ進んでいった。……
『思えば、おれが現在空想しているようなこと、現在おれには有り得べからざる、到底この世のものではないように思われることの一切も、実のところは頗る平々凡々たる事柄にすぎんのだ』とリャボーヴィチは、将軍の馬車のあとを追っかけて行く濛々たる砂塵を眺めながら考えるのだった。『何もかも頗る平凡な、人間なら誰にもあることなのだ。……例えばあの将軍にしたって、若い頃には恋をして、現在じゃ女房もあれば子供もあるというわけだ。ヴァフテル大尉だってそうだ。あんなみっともない真赤な後頸《うしろくび》をして、胴中ときたらまるで四斗樽みたいなずんぐりもっくりなくせに、ちゃんと女房があって、おまけに大事にされている。……サーリマノフときたらあの通りのがさつ者で、おまけに韃靼《ダッタン》人のこちこちときているんだが、あの男にだって一場のロマンスがあって、まんまと恋女房を手に入れたのだ。……俺にしたってみんな同じ人間だ、晩《おそ》かれ早かれみんなと同じ経験をするに違いないんだ……』
そして自分だって世間なみの人間だ、自分の生活だって世間なみなんだという想念で、彼は嬉しくなって勇気も出てきた。彼はもう思いっきり大胆に、例の女[#「例の女」に傍点]の面影や、やがて来るべき自分の幸福を心に描いて、なんの憚るところもなく想像の翼をひろげて行った。……
やがて日暮れになって旅団が目的地に着いて、将校たちがてんでに天幕にはいって休息している頃、リャボーヴィチ、メルズリャコーフ、それにロブィトコの三人は、大トランクの周りに陣どって夜食をしていた。メルズリャコーフは悠然と口へ運んで、ゆっくりと咀嚼しながら、膝の上にひろげた『ヨーロッパ通報』を読んでいた。ロブィトコはのべつ幕なしに喋り立てながら、しきりにコップへビールを注ぎ足しているし、リャボーヴィチはというと、終日の空想のおかげで頭がぼんやりしていたので、黙りこくって飲んでいた。
三杯目をあけると彼は早くも陶然となって、ぐったりしてしまい、それと同時に自分が新たに味わった感覚を、同僚に聞かせてやりたくって堪らなくなって来た。
「あのラッベクのところでね、僕は妙な事件にぶつかったんだがね……」と彼は、自分の声に冷静且つ皮肉な調子を帯びさせようと努力しながら、口をきった。「実は僕、撞球室へ行ったんだがね、すると……」
彼は微に入り細を穿って、例の接吻の一件を語りだしたが、一分もするとぷっつり言葉が絶えてしまった。……つまりその一分間で彼は語り尽してしまったわけで、我ながらこの物語にたったそれだけの時間しかかからないことがひどく意外だった。この接吻の一件は、優に夜が明けるまで語りつづけられるような気がしていたのである。彼の話を聴き終ると、ロブィトコは何しろ自分が作り話の大家で、従って誰の話も信用しない男だものだから、疑わしそうに彼の顔を見て、にやりと笑った。メルズリャコーフは眉をぴくぴくさせると、相変らず『ヨーロッパ通報』から眼を離さずに、穏かにこう言った。――
「おかしな話だなあ!……声もかけずにいきなり首っ玉へかじりつくなんて。……てっきりそりゃあ何か精神病だぜ。」
「うん、てっきり精神病だね……」と、リャボーヴィチが同意した。
「そういや、それと同じ事件がいつか僕にもあったっけ……」とロブィトコは、眼をまるくして見せながら言った。「去年コヴノへ行った時の汽車の中の話だがね。……切符は二等にしたのさ。……車室《はこ》は大入り満員の盛況でね、眠ることなど思いも寄らん。そこで車掌に五十コペイカ玉をつかませた。……すると奴さん、僕の荷物を抱えてね、特別室《クペー》へ案内してくれたんだ。……で横になってね、すっぽり毛布にくるまった。……暗いんだよ、いいかい。すると不意に人の気配がして、誰かしら僕の肩先にさわってね、顔へ熱い息を吹きかけるんだ。僕はそこでこういう工合に片手を動かしてみると、誰かの肘にさわったじゃないか。……はっ
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