にこのひとが、あの行きずりの見知らぬ女であってくれたらさぞよかろうと思った。……ところが彼女は、ふとその時なにかお世辞笑いをしはじめて、よく通った長い鼻すじに皺を寄せた途端に、彼にはその鼻の恰好がいかにも時代おくれのような気がして来た。そこで彼は視線を転じて、黒い衣裳をつけた金髪令嬢を眺めはじめた。これは今の令嬢に比べて年も若く、態度もさらりと眼つきも純真で、鬢の毛をちょっぴり垂らしているところがとても可愛らしくて、おまけに、ひどく綺麗な口つきで葡萄酒のグラスを味わっていた。リャボーヴィチは今度は、この娘がそうだったらさぞよかろうと思った。けれども間もなく彼は、彼女の顔が平べったいことに気がついて、その隣りの女に眼を移した。
『この当て物はなかなか骨だわい』と彼は、空想を逞しゅうしながら考えるのだった。『あの藤色の娘から肩と腕だけを頂戴して、金髪娘の鬢の毛をくっつけ、眼はロブィトコの左に坐っている娘さんのを拝借する、そうすると……』
彼の心の中でこんな組み合せを作ってみると、自分に接吻した娘の面影、彼のあらまほしいと思う面影がまんまと出来あがりはしたものの、さてずらりと見渡したところ、席上にはさっぱり見当らなかった。……
夜食がすむと、満腹した上ほろ酔い機嫌になった客たちは、暇を告げたり礼を述べたりしはじめた。主人夫妻はまたしても、一同に泊っていって貰えないことを詫びはじめた。
「じつにはやなんとも喜ばしいことですわい、皆さん!」と将軍は、しきりにお愛想を振りまいたが、しかも今度は本心からだった(多分それは、客を迎える時よりも送り出す時のほうが、遙かに真心のこもった親切な態度になるという、人間の通有性にもとづくものだろう)。「じつに喜ばしいことですわい! お帰りにも、どうか立寄って下さい! 他人行儀は抜きにしてな! おや、どこへ行かれるな? 上の道を行くおつもりかな? それはいかん、庭を抜けて行き給え、下の道をな――そのほうが近道ですわい。」
将校連は庭へ出た。明々とした光や騒音に馴れたあとなので、彼らにはその庭が一しお暗く静かなように思われた。木戸のところまでは一同黙々として歩を運んだ。みんなほろ酔い機嫌で、浮々して、満足しきった気分だったものの、暗がりと静けさのおかげで、その暫しの間ちょいと瞑想に引入れられたのである。おそらくその一人一人の脳裡には、リャボーヴィチと同様に、ひとつ考えが浮んだに相違ない――果して自分にも、いつかはあのラッベクのように、大きな邸や家族や庭を持つ時が来るものだろうか、そしてよし本心からではないにせよ、人々を厚くもてなして、満腹させたり酩酊させたり満足させたりするような身分に、やはりなれるものだろうか?
木戸を出ると、彼らはみんな一斉に喋りはじめて、わけもいわれもなしに大声で笑いだした。その頃はもう彼らは小径にかかっていて、それがだらだらと川の方へ下り、それからはすぐ水際に沿って、岸辺の藪や、水に洗われて窪んだ場所や、水面に枝を垂れている柳などのまわりを縫いながら、うねうねと走っていた。岸辺と小径とはどうにか見えていたけれど、向う岸はすっかり闇の中に沈んでいた。暗い水面のそこここに星影がうつって、それがちらちら顫えたり砕け散ったりするので、それでやっと川の流れの急なことが察せられた。静かだった。向う岸では寐呆けた山しぎ[#「しぎ」に傍点]が悲しそうな声を立て、こっち岸では、とある藪の繁みで、将校たちの群にはさらに気をとめる様子もなく、小夜鶯《うぐいす》が声をかぎりに歌いはじめた。将校たちはその繁みのそばに暫らく足をとめてちょいと揺すぶってみたりしたが、小夜鶯《うぐいす》は平気で歌っていた。
「こいつはどうだい?」と感歎の叫びがひとしきり聞えた。「俺たちがすぐそばに立っとるのに、やつめ平気の平左でいるぜ! なんて図々しいやつだろう!」
行程が終りに近づくと、小径は上《のぼ》りになって、教会の柵のところで本道に合わさっていた。そこで将校たちは、上り坂の強行軍の疲れが出て、ちょっと腰をおろして煙草をふかした。向う岸にその時、ぼうっと赤い一点の火影があらわれたので、彼らは手持ち無沙汰のあまり、長いことかかって、あれは焚火だろうか、窓の燈だろうか、それとも何かほかの物だろうかと評定していた。リャボーヴィチもやはり火影を眺めていたが、彼にはその火影がまるで例の接吻の一件を知っているような顔つきをして、しきりに彼の方に微笑みかけたり、目くばせしたりしているような気がした。
宿舎へたどりつくと、リャボーヴィチは手早く服を脱いで横になった。彼と同じ農家に泊ることになったのは例のロブィトコと、もう一人メルズリャコーフという中尉だった。これはもの静かな口数の少い好青年で、その仲間では教養ある士官として通っており、いやしくも本のひろげられる場所ならどこででも、つねづね肌身はなさず持ち歩いている『ヨーロッパ通報』〔[#割り注]当時のリベラリスティクな大雑誌[#割り注終わり]〕をあけて読んでいるという男だった。ロブィトコは服を脱いでからも、なんだかもの足りなそうな顔をして、部屋の隅から隅へ長いこと行ったり来たりしていたが、やがて従卒を呼んで、ビールを買いに外へ出した。メルズリャコーフは横になると、枕もとに蝋燭を立てて、一心不乱に『ヨーロッパ通報』を読みだした。
『一体どれだろうな、あの女は?』とリャボーヴィチは煤ぼけた天井を眺めながら考えていた。
彼の頸筋は、いまだに香油でも塗られたような気持だったし、口のあたりはまるで薄荷水でも滴《た》らしたようにすうすうしていた。彼の想像の中にはちらちらと、藤色の令嬢の肩だの腕だの、黒服の金髪令嬢の鬢の毛だの純真な眼つきだの、そうかと思うと誰彼の腰だの衣裳だのブローチだのが、浮んだり消えたりしていた。彼はそうした幻の上に自分の注意をじっと据えてみようと努力したけれど、相手のほうではお構いなしに跳ね※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]ったり、微塵に砕け散ったり、明滅したりするのだった。やがて、誰でも、眼をつぶると見えるあの広びろした真黒な背景の上から、今いったような幻がすっかり消え失せてしまうと、今度は彼の耳に気ぜわしげな足音や、さらさらいう衣ずれの音や、ちゅっという接吻の響きがきこえだして、――強烈な、これという理由もない歓喜の情が、彼をとらえてしまった。……その嬉しさに身をゆだねながら、彼は従卒が帰って来て、ビールはありませんと復命するのを夢うつつのうちに聞いていた。ロブィトコはおそろしく憤慨して、またもや大股に歩きはじめた。
「なあ、こいつ白痴《こけ》じゃないのかい?」と彼は、リャボーヴィチの前に立停ったり、メルズリャコーフの前に立停ったりしながら言うのだった。「ビール一つ見つけられんなんて、木偶《でく》の坊とも大馬鹿とも、方図が知れんじゃないか! ああん? いやさ、こいつ横着なんじゃないのかい?」
「当り前ですよ、こんな所にビールがあるもんですか」とメルズリャコーフが言ったが、眼は相変らず『ヨーロッパ通報』から離しもしない。
「へえ? 君はそう思うのかい?」とロブィトコはからんで行った。「やれやれ情けない話だ、この僕だったらたとえ月世界へ抛り出されたところで、即座にビールでも女でも見つけだして差上げるぜ! そうだ、これから一っ走り行って見つけて来よう。……もし見つからなかったら、僕を卑劣漢とでもなんとでも呼び給えだ!」
彼はぐずぐずと長いことかかって服をつけ、大きな長靴をやっとこさで穿いてから、黙々として巻煙草を一本すい終ってから、ようやく出て行った。
「ラッベク、グラッベク、ロァッベクか。」彼は玄関で立停りながらぼやきはじめた。「一人で行くのはつまらんなあ、畜生め。リャボーヴィチ、君ひとつプロムナージュ〔[#割り注]プロムナード(散歩)の覚え違え[#割り注終わり]〕を試みないかい? ええ?」
返事がなかったので、彼は引返して来て、ぐずぐずしながら服を脱いで、寝床に横になった。メルズリャコーフは溜息をつくと、『ヨーロッパ通報』を傍へ押しやって、蝋燭を吹き消した。「ふむ、そうか?……」とロブィトコは暗闇の中で巻煙草を喫いつけながら呟いた。
リャボーヴィチは頭からすっぽり毛布を引っかぶって、からだを蝦《えび》みたいに丸めると、想像の中で例のちらちらする幻を拾いあつめて、一つの完全な姿にまとめ上げようとしだした。ところがさっぱり駄目だった。間もなく彼は眠りに落ちてしまったが、彼が最後に考えたことは、誰かが自分を愛撫して喜ばせてくれたのだ、自分の生涯に何かしら並々ならぬ、馬鹿らしい、とはいえ頗るもって甘美なよろこばしい出来事があったのだ、ということだった。この想念は夢の中でも彼を離れなかった。
彼が眼をさました時には、頸筋の香油を塗られたような気持や、唇のあたりの薄荷水を滴らしたようなすうすうした感じはもうなかったが、ぞくぞくするような嬉しさは昨夜と変りなく、胸の中に寄せつ返しつしていた。彼は悦びにうっとりしながら、さし昇る朝日を受けて金色に輝いている窓枠を眺めたり、往来に始まっている人や車の動きに耳を傾けたりした。すぐ窓の下で大きな話声がしていた。リャボーヴィチの隊の中隊長をしているレベデツキイが、今しがた旅団に追いついたところで、日ごろ物静かに話しつけない人だものだから、とても大きな声で部下の曹長を相手にしゃべっていた。
「まだ何かあるか?」と中隊長がどなった。
「昨日の蹄鉄打換えの際、中隊長殿、小鳩号《ゴープチノ》の蹄《ひずめ》を傷つけました。軍医補が醋酸を加えた粘土をつけてやりました。目下列外へ出して手綱を曳いてやっております。それからまた、中隊長殿、きのう鉄工卒のアルチェーミエフが泥酔しましたので、中尉殿が彼奴《きゃつ》を予備砲車の前車へ乗せるように命令されました。」
曹長の報告はまだ続いて、カルポフが喇叭《ラッパ》の新しい紐と天幕の杙《くい》を忘れたとか、将校の方々が昨夜フォン=ラッベク将軍のお邸へ招《よ》ばれて行かれましたとか述べ立てて行った。この会話の最中に、ぬっと窓の中にレベデツキイの赤髯の首が現われた。彼は近視の眼をちょいと細めて、将校連の睡そうな顔つきを眺め、やあお早うと挨拶した。
「万事異状なしかね?」と彼はたずねた。
「砲車の鞍馬が※[#「髟/耆」、第4水準2−93−24]《き》甲をすり剥きました」とロブィトコが欠伸をしながら答えた。「頸圏が新しいものでね。」
中隊長は溜息して、ちょっと思案してから、大声で言った。――
「僕はまだこれから、アレクサンドラ・エヴグラーフォヴナのところへ寄って行くつもりだ。御機嫌伺いをせにゃならんのでね。じゃ、さよなら。夕方ごろには諸君に追いつくよ。」
十五分後には旅団は行進を起した。途中で例の地主の穀倉の傍を通りかかると、リャボーヴィチは右手の屋敷の方を見やった。窓にはすっかり鎧戸が下りていた。てっきり屋敷の人はまだみんな寝ているのだ。あの昨夜、リャボーヴィチに接吻した女も眠っているのだ。彼はふと彼女の眠っている姿を心に描いてみたくなった。一ぱいに開けはなたれた寝室の窓、その窓をのぞき込んでいる青々した樹の枝、朝のすがすがしい空気、ポプラや紫|丁香花《はしどい》や薔薇の匂い、寝台が一つ、椅子が一つ、それにふわりと掛けてあるのは昨夜さらさらと鳴ったあの衣裳、小さなスリッパ、テーブルの上には小型な懐中時計――といったものは、残らずはっきり手に取るように思い描かれたけれど、眼鼻だちとか、愛くるしい夢うつつの微笑とか、つまり肝腎の特徴的な点になると、まるで水銀が指のまたからこぼれるように、彼の想像から滑り落ちてしまうのだった。四五町も行った頃、彼があとを振返ってみると、黄色い教会や、例の屋敷や、川や、庭園は、さんさんと光を浴びていた。川は目のさめるような緑の両岸にふちどられて、水面《みのも》に浅葱《あさぎ》いろの空を映しながら、ところどころ陽の光を銀色に射返して、とてもきれいだった。リャボ
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