として眼をあけてみた。するとどうだい君、――女なんだぜ! 黒いつぶらな眼。真赤な脣はまるで生きのいい鮭のよう、鼻孔は情熱を息づき、胸はといえば――緩衝器がむっちりと二つ。」
「ちょいと待ってくれ」とメルズリャコーフは穏かにさえぎって、「胸のことはそれでもわかるがね、どうして君には脣まで見えたんだね、実際暗かったとすればさ?」
ロブィトコはなんとか言いくるめてしまおうと、メルズリャコーフの血のめぐりの悪さ加減を嘲笑しはじめた。そんなことからリャボーヴィチは厭な気持になってしまった。彼は大トランクの傍をはなれて、横になると、もう二度と再び打明け話なんかしまいと心に誓った。
野営生活が始まった。……すこぶる似たり寄ったりの日が流れて行った。そうした日々を通じて、リャボーヴィチの物の感じかた、物の考えかた、またその振舞いは立派にもう恋をしている男のそれだった。毎朝、従卒が洗面の用意をととのえてくれると、彼は冷たい水を頭へかぶりながら、その都度きまって思い出すのは、自分の生活にも一種こう甘美な温かいものが出来たわい、ということだった。
晩になって、同僚たちが色恋や女の話をやりだすと、彼はじっと聴耳を立てて、近くへ身を乗り出してゆくのだったが、その面上には、自分たちの参加した戦闘の話を謹聴している兵卒の顔によく見られるような表情が浮んでいた。また晩によっては、一杯機嫌の尉官連中が例の猟犬《セッター》ロブィトコを先頭に押し立てて、いわゆる『部落』へドン・ファン的襲撃を試みることもあったが、リャボーヴィチはその襲撃に参加しはするものの、その都度きまって気が滅入って、まことに申しわけないような気がし、肚の中でかの女[#「かの女」に傍点]に赦しを乞うのだった。……無聊に苦しむような時、または眠られぬ夜など、子供の頃のこと、父のこと、母のことをはじめ、押しなべてわが身に親しく近しい物ごとを偲びたい気持がわくような時には、彼はきまってあのメステーチキ村や、例の一風変った小馬や、ラッベクや、ウージェニー皇后そっくりなその夫人や、あの真暗な部屋や、扉口のきららかな隙間などをも思い出すのだった。……
八月の三十一日に彼は野営から帰途についたが、今度は旅団全体と一緒ではなく、二個中隊と行を共にしていた。道中ずっと彼は空想したり興奮したりして、まるで生れ故郷へ帰る人のようだった。彼は無性にもう一度あの風変りな馬や、教会や、あの誠意のないラッベク一家や、真暗な部屋などが見たくてたまらなかった。いわゆる『内心の声』は恋をする人々を実にしばしばあざむくものだが、それが彼にも何故とはなしに、きっとあの女に会えるぞとささやくのだった。……そうなるといろんな取越し苦労が彼をなやました――どんな工合にあの女に出くわすことになるだろう? あの女とどんな話をしたらいいだろう? あの女は接吻のことなんかきれいに忘れちゃいないかしら? 『万一間がわるくって』と彼は考えるのだった、『あの女に逢えないにしても、あの真暗な部屋を歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、思い出に耽れさえすりゃ、それだけで俺はもう十分うれしいんだがなあ……』
夕暮ちかく地平線上に、例の見覚えのある教会と白い穀倉が見えてきた。リャボーヴィチの胸は高鳴りはじめた。……彼は轡をならべて進んでいる将校が、しきりに自分に話しかけて来るのを、てんから聴こうともせず、無念無想の境にあって、むさぼるように瞳を凝らし、遙か彼方にきらきらしている川や、屋敷の屋根や、鳩小舎や、その上空を折からの入日に照らされながら円を描いて飛んでいる鳩の群などに、じっと眺め入っていた。
教会の傍まで馬を乗りつけて行く間も、やがて宿舎係の説明を謹聴している間も、彼は柵のかげから例の乗馬の男がひょっくり現われて、将校の方々をお茶に招待するのを、今か今かと待っていたが……宿舎係の報告が終り、将校連中が或いは急ぎ足で或いはぶらぶらと村へはいって行った頃になっても、乗馬の使者は一向姿を現わさなかった。……
『もうじきラッベクは、われわれの到着のことを百姓から聞いて、迎えをよこすだろう』――リャボーヴィチはそんなことを考えながら百姓家へはいって行ったが、だのにどうして同宿の友が蝋燭をともすのやら、またなぜ従卒たちがあたふたとサモヴァルの支度をするのやら、さっぱり腑に落ちなかった。……
やるせない不安の念が彼をとらえた。彼は一度横になったが、やがて起きあがると、乗馬の使者が来はしまいかと窓を覗いてみた。が乗馬の使者の姿はなかった。彼は再び横になったが、半時間もするとまた起き出して、不安の念に矢も楯もたまらなくなり、往来に出るとそのまま教会の方へ歩いて行った。柵のほとりの広場は真暗で、人っ子一人いなかった。……ただどこかの隊の兵卒が三人肩を並べて、ちょうど坂の下り口のところに立ったまま黙然としていた。リャボーヴィチの姿を見ると、彼らは飛びあがらんばかりにあわてて敬礼をした。彼はそれに挙手の礼を返すと、見覚えのある小径づたいにそろそろ下りて行った。
対岸の空は一めん紫金《しこん》いろに染まっていた。月が出るのである。どこかの百姓女が二人、大きな声で話し合いながら、野菜畠を歩いてキャベツの葉をむしっていた。その野菜畠の向うには百姓家が二三軒黒々と影をにじませている。……一方こちら岸は、何から何まで五月に見たときそのままの姿だった。小径、藪の繁み、水面に枝を垂れている柳……ただ違うところといえば、例の勇敢な小夜鶯《うぐいす》の声がきこえず、それにポプラや若草の匂いがしないことだった。
庭のところまで来ると、リャボーヴィチは木戸ごしに中を覗いてみた。庭は真暗で、ひっそりしていた。……見えるのはただ、真近かな樺の木の白々とした幹が数本と、並木道の片端とだけで、あとは残らず真黒な一かたまりに溶け合っていた。リャボーヴィチは、しきりに聴耳を立てたり眼を凝らしたりしていたが、十五分ほども立ち尽した甲斐もなく、物音一つ灯影一つ見えも聞えもしなかったので、またぶらぶらと後へ引返した。……
彼は川ぶちへ歩み寄った。彼の前には仄々《ほのぼの》と白っぽく、将軍邸の水浴小屋と、小橋の欄干に掛けてあるシーツが浮んでいた。……彼は小橋へ上って行って、そこに暫く足を停めていたが、そのうちなんの用もないのにシーツの一枚にそっと手を触れてみた。さわってみるとそのシーツはざらざらで、ひやりと冷たかった。彼は水を見おろした。……川は流れが早く、聞えるか聞えないほどのせせらぎの音を、水浴小屋の杙にあたって立てていた。赤い月が左岸寄りに影を落していた。その影の上を、さざ波がしきりに走って、それを引き伸ばしたり微塵に砕いたりしながら、運び去ろうとかかっているように見えた。
『実に愚劣だ! 実に愚劣だ!』とリャボーヴィチは、流れてゆく水を眺めながら考えた。『何もかも実に愚かしいきわみだ!』
もはや何一つ待ち設けるものもない今になってみると、接吻の一件も、自分の焦慮も、とりとめのない希望も、幻滅も、白日の光を浴びて彼の前にさらけ出されていた。彼にはすでに、将軍邸の使者に待ちぼけを喰わされたことも、自分を他人と間違えてうっかり接吻したあの女に二度と再び会うおりがあるまいということも、一向に不思議と思えなかった。それどころか、もしあの女に会えたとしたら、そのほうがよっぽど不思議なのだ。……
水はどこへとも、なんのためとも知れず、しきりに流れていた。それはかつてあの五月にも、やはり同じ様子で流れていたのだ。その水は五月の月に小川から大河に流れ込み、大河から海へそそぎ、やがて蒸発して雨に姿を変え、そしてひょっとしたらほかならぬその同じ水が、今またリャボーヴィチの眼の前を流れているのかもしれない。……どうしようというのだろう? なんのためだろう?
するとこの世界全体、この人生一切が、リャボーヴィチには、不可解なあてどもない戯れのように思われて来た。……そこで眼を水面から転じて空を振り仰ぐと、彼はまたしても、運命があの見知らぬ女の姿を借りて、思いがけない愛撫をこの身に与えてくれた次第を思いおこし、また例の夏の日の空想やまぼろしを思いおこし、つくづく自分の生活がわれながら並外れて退屈な、みじめな、ぱっとしないものに思われて来た。……
やがて彼が宿舎になっている百姓家へ帰ってみると、同僚は一人のこらず出払っていた。従卒の報告をきくと、みんな揃って『フォン=トリャープキン将軍』の屋敷へ出掛けたとのことだった。今度はこの人が、乗馬の使者を迎えによこしたのだ!……一瞬リャボーヴィチの胸に、ぱっと歓喜が燃えあがったが、彼はすぐさまそれを揉み消して寝床へもぐり込み、わが身の運命に対する面当てに、まるでわざわざ運命を残念がらせてやろうとでもするように、将軍のところへは行かなかった。
底本:「チェーホフ全集 7」中央公論社
1960(昭和35)年6月15日初版発行
1976(昭和51)年9月16日改版第1刷発行
入力:阿部哲也
校正:米田
2010年5月18日作成
2010年6月5日修正
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