あらば頭をすっぽり隠してしまいたいような思いを起させたのである。初めて公衆の前に立った講演者みたいに、彼には眼前にあるものが残らず見えていながら、しかもその見えているものが、どうもはっきり掴めないのだった(生理学者仲間では、このように対象が見えていながら理解できない状態を『心盲』と名づけている)。が暫らくすると、まわりに慣れて来て、リャボーヴィチは心の視力を取り戻し、そろそろ観察をはじめた。弱気で社交に馴れない人間の常として、彼の眼にまずイの一番に映じたのは、自分の身に生れてこの方あった覚えのないもの、というのはつまり――このお初《はつ》に知合いになった連中の並はずれた勇敢さだった。フォン=ラッベク、その夫人、二人のかなり年配の婦人、藤色の衣裳をつけたどこかの令嬢、例の人参色の頬髯の青年――これはラッベクの末っ子とわかったが、そうした連中は頗る手際よく、まるで予め稽古でもしておいたような鮮やかさで将校連の間に割り込んで席を占めたかと思うと、あっというまに猛烈な議論をおっぱじめたので、お客のほうでも思わず知らずその中へ巻き込まれてしまった。藤色の令嬢が口角泡を飛ばさんばかりの勢で、砲兵の
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