肩を並べて、ちょうど坂の下り口のところに立ったまま黙然としていた。リャボーヴィチの姿を見ると、彼らは飛びあがらんばかりにあわてて敬礼をした。彼はそれに挙手の礼を返すと、見覚えのある小径づたいにそろそろ下りて行った。
対岸の空は一めん紫金《しこん》いろに染まっていた。月が出るのである。どこかの百姓女が二人、大きな声で話し合いながら、野菜畠を歩いてキャベツの葉をむしっていた。その野菜畠の向うには百姓家が二三軒黒々と影をにじませている。……一方こちら岸は、何から何まで五月に見たときそのままの姿だった。小径、藪の繁み、水面に枝を垂れている柳……ただ違うところといえば、例の勇敢な小夜鶯《うぐいす》の声がきこえず、それにポプラや若草の匂いがしないことだった。
庭のところまで来ると、リャボーヴィチは木戸ごしに中を覗いてみた。庭は真暗で、ひっそりしていた。……見えるのはただ、真近かな樺の木の白々とした幹が数本と、並木道の片端とだけで、あとは残らず真黒な一かたまりに溶け合っていた。リャボーヴィチは、しきりに聴耳を立てたり眼を凝らしたりしていたが、十五分ほども立ち尽した甲斐もなく、物音一つ灯影一つ見えも聞えもしなかったので、またぶらぶらと後へ引返した。……
彼は川ぶちへ歩み寄った。彼の前には仄々《ほのぼの》と白っぽく、将軍邸の水浴小屋と、小橋の欄干に掛けてあるシーツが浮んでいた。……彼は小橋へ上って行って、そこに暫く足を停めていたが、そのうちなんの用もないのにシーツの一枚にそっと手を触れてみた。さわってみるとそのシーツはざらざらで、ひやりと冷たかった。彼は水を見おろした。……川は流れが早く、聞えるか聞えないほどのせせらぎの音を、水浴小屋の杙にあたって立てていた。赤い月が左岸寄りに影を落していた。その影の上を、さざ波がしきりに走って、それを引き伸ばしたり微塵に砕いたりしながら、運び去ろうとかかっているように見えた。
『実に愚劣だ! 実に愚劣だ!』とリャボーヴィチは、流れてゆく水を眺めながら考えた。『何もかも実に愚かしいきわみだ!』
もはや何一つ待ち設けるものもない今になってみると、接吻の一件も、自分の焦慮も、とりとめのない希望も、幻滅も、白日の光を浴びて彼の前にさらけ出されていた。彼にはすでに、将軍邸の使者に待ちぼけを喰わされたことも、自分を他人と間違えてうっかり接吻したあの女に
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