う一度あの風変りな馬や、教会や、あの誠意のないラッベク一家や、真暗な部屋などが見たくてたまらなかった。いわゆる『内心の声』は恋をする人々を実にしばしばあざむくものだが、それが彼にも何故とはなしに、きっとあの女に会えるぞとささやくのだった。……そうなるといろんな取越し苦労が彼をなやました――どんな工合にあの女に出くわすことになるだろう? あの女とどんな話をしたらいいだろう? あの女は接吻のことなんかきれいに忘れちゃいないかしら? 『万一間がわるくって』と彼は考えるのだった、『あの女に逢えないにしても、あの真暗な部屋を歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]って、思い出に耽れさえすりゃ、それだけで俺はもう十分うれしいんだがなあ……』
 夕暮ちかく地平線上に、例の見覚えのある教会と白い穀倉が見えてきた。リャボーヴィチの胸は高鳴りはじめた。……彼は轡をならべて進んでいる将校が、しきりに自分に話しかけて来るのを、てんから聴こうともせず、無念無想の境にあって、むさぼるように瞳を凝らし、遙か彼方にきらきらしている川や、屋敷の屋根や、鳩小舎や、その上空を折からの入日に照らされながら円を描いて飛んでいる鳩の群などに、じっと眺め入っていた。
 教会の傍まで馬を乗りつけて行く間も、やがて宿舎係の説明を謹聴している間も、彼は柵のかげから例の乗馬の男がひょっくり現われて、将校の方々をお茶に招待するのを、今か今かと待っていたが……宿舎係の報告が終り、将校連中が或いは急ぎ足で或いはぶらぶらと村へはいって行った頃になっても、乗馬の使者は一向姿を現わさなかった。……
『もうじきラッベクは、われわれの到着のことを百姓から聞いて、迎えをよこすだろう』――リャボーヴィチはそんなことを考えながら百姓家へはいって行ったが、だのにどうして同宿の友が蝋燭をともすのやら、またなぜ従卒たちがあたふたとサモヴァルの支度をするのやら、さっぱり腑に落ちなかった。……
 やるせない不安の念が彼をとらえた。彼は一度横になったが、やがて起きあがると、乗馬の使者が来はしまいかと窓を覗いてみた。が乗馬の使者の姿はなかった。彼は再び横になったが、半時間もするとまた起き出して、不安の念に矢も楯もたまらなくなり、往来に出るとそのまま教会の方へ歩いて行った。柵のほとりの広場は真暗で、人っ子一人いなかった。……ただどこかの隊の兵卒が三人
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