接吻
Поцелуй
アントン・チェーホフ Anton Chekhov
神西清訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)淡黄毛《さめげ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)紫|丁香花《はしどい》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]
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 五月二十日の晩の八時のこと、N予備砲兵旅団の六個中隊が全部、野営地へ赴く途中で、メステーチキという村に一泊すべく停止した。砲のまわりで世話をやくのに忙がしい将校があるかと思えば、馬を飛ばして教会の柵のほとりの広場へ集合して、宿舎係の説明に聴き耳を立てている将校もあるという、てんやわんやの真最中に、教会のかげから、馬にまたがった平服の男が一人姿を現わしたが、その乗っている馬がまた一風変った代物だった。淡黄毛《さめげ》の小作りな馬で、きれいな頸と短い尻尾をしているが、その歩き方がまっすぐではなく、なんだか横歩きでもしているような工合で、おまけに四つ脚でひょこひょこ小刻みに踊るような運動を演じているところは、まるで鞭を脚へ当てられでもしているような恰好だった。将校の集まっている所までやって来ると、乗馬の男は帽子をちょいとつまみ上げて、次のような口上を述べ立てた。
「当村の地主、陸軍中将、フォン=ラッベク閣下が、将校の方々にお茶を差上げたく、館《やかた》まで即刻お越し下さるようお招きでござります……」
 馬はぴょこりとお辞儀をすると、またもやダンスをはじめて、得意の横歩きでもって後ずさりした。乗馬の使いは、もう一ぺんちょいと帽子をつまみ上げたかと思うと、瞬く間にくだんの一風変った馬もろとも、教会のかげへ姿を消してしまった。
「ちぇっ、なんてこったい!」それぞれの宿舎へ別れて行きながら、怨めしそうに、そんなことを呟く将校もあった。「こっちは睡くて堪らんというのにさ、フォン=ラッベクとやらがお茶をどうぞとおいでなすった! それがどんなお茶だかってことは、こっちじゃ先刻承知なんだ!」
 全六個中隊の将校たちの脳裡には、去年あったことがまざまざと思い出された。それは機動演習の時のことだったが、彼らは或るコサック連隊の将校と一緒に、ちょうど今と同じ筆法で、
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