二度と再び会うおりがあるまいということも、一向に不思議と思えなかった。それどころか、もしあの女に会えたとしたら、そのほうがよっぽど不思議なのだ。……
水はどこへとも、なんのためとも知れず、しきりに流れていた。それはかつてあの五月にも、やはり同じ様子で流れていたのだ。その水は五月の月に小川から大河に流れ込み、大河から海へそそぎ、やがて蒸発して雨に姿を変え、そしてひょっとしたらほかならぬその同じ水が、今またリャボーヴィチの眼の前を流れているのかもしれない。……どうしようというのだろう? なんのためだろう?
するとこの世界全体、この人生一切が、リャボーヴィチには、不可解なあてどもない戯れのように思われて来た。……そこで眼を水面から転じて空を振り仰ぐと、彼はまたしても、運命があの見知らぬ女の姿を借りて、思いがけない愛撫をこの身に与えてくれた次第を思いおこし、また例の夏の日の空想やまぼろしを思いおこし、つくづく自分の生活がわれながら並外れて退屈な、みじめな、ぱっとしないものに思われて来た。……
やがて彼が宿舎になっている百姓家へ帰ってみると、同僚は一人のこらず出払っていた。従卒の報告をきくと、みんな揃って『フォン=トリャープキン将軍』の屋敷へ出掛けたとのことだった。今度はこの人が、乗馬の使者を迎えによこしたのだ!……一瞬リャボーヴィチの胸に、ぱっと歓喜が燃えあがったが、彼はすぐさまそれを揉み消して寝床へもぐり込み、わが身の運命に対する面当てに、まるでわざわざ運命を残念がらせてやろうとでもするように、将軍のところへは行かなかった。
底本:「チェーホフ全集 7」中央公論社
1960(昭和35)年6月15日初版発行
1976(昭和51)年9月16日改版第1刷発行
入力:阿部哲也
校正:米田
2010年5月18日作成
2010年6月5日修正
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