と扇を柄付眼鏡《ロルネット》もろとも握りしめた。てっきりそれは、気を失うまいと自分を相手に闘っているものらしい。二人とも無言だった。彼女は坐ったままだったし、彼は彼で、女のうろたえように度胆を抜かれて、隣へ腰をおろす決心がつかずに立っていた。調子を合わせるヴァイオリンとフルートの音がしだすと、彼はまるでそこらじゅうのボックスから見つめられているような気がして、急にそら恐ろしくなった。がそのとき彼女はつと席を立つと、足早に出口を指して行く。彼もそのあとを追って、それから二人は唯もうでたらめに、廊下から階段へ階段から廊下へと昇ったり降りたりして行った。二人の眼のまえには、法官服や教師の服や御料地事務官の服をつけた人々が、思い思いの徽章《きしょう》を胸に、絶えずちらちらしていた。婦人連の姿や、外套掛けにさがった毛皮外套も眼にちらつき、かと思うと吹き抜け風がむっと吸いさしの煙草の臭《にお》いを吹きつけたりした。そしてグーロフは、激しい動悸を抑えながら、心のなかで思うのだった。――
『やれやれ情けない! いったい何ごとだろう、この連中は、あのオーケストラは……』
 するとそのとき不意に、彼はあの
前へ 次へ
全43ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
チェーホフ アントン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング