晩がた停車場でアンナ・セルゲーヴナを見送ってから、これで万事おしまいだ、もう二度と会うことはあるまい、と心につぶやいたことを思い出した。それが、おしまいまではまだまだ何と遠いことだろう!
『立見席御入口』と掲示の出ている狭い薄暗い階段の中途で、彼女は立ちどまった。
「ずいぶん人をびっくりさせる方《かた》ねえ!」と彼女は苦しそうに息をつきながら言った。いまだに真っ蒼《さお》な、あっけにとられたような顔だった。「ええ、ほんとに人をびっくりさせる方ですわ! わたし生きた心地もないくらい。何だって出掛けていらしたの? なぜですの?」
「でも察してください、アンナ、察して……」と彼は小声で、急《せ》きこんで言った。「後生だから察して……」
 彼女は恐怖と哀願と愛情の入れまじった眼差《まなざ》しで彼を見つめた。彼の面影をなるべくしっかり記憶に刻みつけようと、まじまじと見つめるのだった。
「わたしとても苦しんでいますの!」と彼女は、相手の言葉には耳をかさずにつづけた。「わたしはしょっちゅうあなたの事ばかり考えていたの、あなたのことを考えるだけで生きていたの。そして、忘れよう忘れようと思っていたのに、
前へ 次へ
全43ページ中33ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
チェーホフ アントン の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング