つは空想を描くのだった。
 アンナ・セルゲーヴナと一緒に一人の若い男がはいって来て、並び合って席についた。それはちょっぴり頬髯《ほおひげ》を生やした、おそろしく背の高い、猫背の男だった。一あしごとに首を縦にふるので、まるでのべつにお辞儀をしているように見える。多分これが、彼女があの晩ヤールタで悲痛な感情の発作に駆られて、従僕と失礼な呼び方をした良人なのだろう。なるほどそう言えば、そのひょろ長い恰好《かっこう》や、頬髯や、ちょっぴり禿《は》げ上がった額《ひたい》ぎわなどには、一種こう従僕めいたへりくだった所があるし、おまけに甘ったるい微笑を浮かべて、ボタン孔にはちょうど従僕の番号みたいに、学位章か何かが光っていた。
 初めての幕間《まくあい》に良人は煙草《たばこ》をのみに出て行って、彼女は席に居のこった。やはり平土間に席をとっていたグーロフは、彼女の傍へ歩み寄ると、無理に笑顔をつくりながら顫《ふる》える声でこう言った。――
「ご機嫌よう」
 彼女は彼の顔を見るとさっとばかり蒼《あお》ざめたが、やがてもう一ぺん、わが眼が信じられないといった風に、恐る恐る彼の方をふり仰ぎ、両手のうちにぎゅっ
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