うな気がした。来る夜も来る夜も彼女は書棚の中から、壁炉《カミン》の中から、部屋の片隅から、じっと彼を見つめていて、彼にはその息づかいや、優しい衣《きぬ》ずれの音が聞こえるのだった。街へ出ると彼は女たちの姿を見送り見送り、彼女に似た女がいはしまいかと捜すのだった。……
そのうちにもう、自分の思い出話を誰かに聞かせたくてほとほと堪《たま》らなくなってしまった。しかしわが家でのろけ話もできないし、さりとて家の外にも相手がみつからない。まさか店子《たなこ》を相手にやるわけにも行かず、銀行にもこれといった相手がない。それにまた何の話すことがあるのだろう? 自分はあのとき果して恋をしていたのかしら? いったい自分がアンナ・セルゲーヴナと結んだ関係には、何かこう美しいもの、詩的なもの、またはためになるもの、あるいは単に面白いものでもいい、果してそれがあっただろうか? そこで余儀なく漠然と恋愛や女性のことを話してみるのだったが、誰ひとりとして彼の言わんと欲するところを察してくれる人はなく、ただ彼の妻がその濃い眉をもぐもぐさせながら、こう言っただけだった。――
「ヂミートリイ、あんたは二枚目なんぞの柄
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