アンナ・セルゲーヴナと別れたのはつい昨日のことのように、何もかもが記憶にはっきりしていた。そして追憶がますます強く燃えあがって行くのだった。宵《よい》の静寂のなかで子どもたちの予習の声が書斎まで聞こえて来ても、ふと小唄を耳にしても、料理屋でオルガンの鳴るのが聞こえても、または壁炉《カミン》のなかで吹雪が唸っても、たちまちもうあの波止場であったことから、山々に霧のかかっていた朝明けのことから、フェオドシヤから来た汽船のことから、接吻のことから、一切が残らず記憶によみがえって来るのだった。彼はいつまでも部屋の中を行きつ戻りつしながら、思い出をたぐったり微笑《ほほえ》んだりするのだったが、そのうち思い出はだんだん空想に変わって行き、過去が想像のなかで未来のことと混り合うようになった。アンナ・セルゲーヴナは夢には現われずに、どこへでもまるで影のように後からついて来て、彼を見まもっていた。眼をつぶると、彼女の面影がまるで現身《うつそみ》のようにまざまざと見え、しかも以前より美しく、若やいで、あでやかさを加えたような気がした。また彼自身もヤールタにいた頃より、われながら風采《ふうさい》が上がったよ
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