天気の凍てのぴりぴりする日にモスクヴァへ舞い戻って来て、毛皮の外套《がいとう》を着込み温かい手袋をはめて*ペトローフカ通りをひとわたりぶらついたり、土曜日の夕ぐれ鐘の音を耳にしたりするが早いか、最近の旅行のことも、行って見た土地土地のことも、すっかり彼には魅力がなくなってしまった。だんだん彼はモスクヴァ生活につかり込んで、今ではもう日に三種もの新聞をがつがつ読むくせに、いや私はモスクヴァの新聞は読まん主義でして、と涼しい顔をするのだった。そのうちに料理屋やクラブが恋しくなる、ごちそうや祝宴に招《よ》ばれるのが待ち遠しくなる。やがてはわが家へ有名な弁護士や役者の出入りのあることや、医師クラブで教授連を相手にカルタを闘わしたりするのが、内心すこぶる得意になる。果てはもう肉の寄せ鍋を一人前きれいに平らげられるまでになった。……
 せいぜいひと月もすれば、アンナ・セルゲーヴナの面影は記憶の中で霧がかかって行って、今までの女たちと同様、いじらしい笑みを浮かべて時たまの夢に現われるだけになってしまうだろう――そんなふうに彼は高を括《くく》っていた。ところがひと月の上になって、真冬が訪れても、まるで
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