てみるとどうやら彼女の眼には、正体とは別物の彼の姿が映っていたものと見える。つまりは知らず識《し》らず彼女をだましていたことになる。……
 今いる停車場はもう秋の匂いがして、ひえびえとした晩であった。
『おれもそろそろ北へ帰っていい頃だ』とグーロフは、プラットフォームを出ながら考えた。『もういい頃だ!』

       三

 モスクヴァのわが家はもうすっかり冬仕度《ふゆじたく》で、暖炉も焚いてあるし、毎朝子どもたちが登校の身ごしらえをしたりお茶を飲んだりしているうちはまだ暗いので、乳母《うば》がしばらくのあいだ燈をともす始末だった。もう凍《い》てが始まっていた。初雪が降って、はじめて橇《そり》に乗って行く日、白い地面や白い屋根を目にするのは楽しいもので、息もふっくらといい気持につけ、この頃になるときまって少年の日が思い出される。菩提樹《ぼだいじゅ》や白樺の老樹が霜で真っ白になった姿には、いかにも好々爺《こうこうや》然とした表情があって、糸杉や棕櫚《しゅろ》よりもずっと親しみがあり、その傍にいるともう山や海のことを想いたくもない。
 グーロフは根がモスクヴァの人間だったので、その彼が上
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