紙が来て、眼が悪くなったことを報《し》らせ、後生だから妻に早く帰ってきてもらいたいと言ってよこした。アンナ・セルゲーヴナはそわそわし始めた。
「わたしが行ってしまうのはいい事だわ」と、彼女はグーロフに言うのだった。「これが運命というものなのよ」
 彼女は馬車でたち、彼も一緒に送って行った。一日がかりの道のりだった。やがて彼女が急行列車の車室《はこ》に席を占めて、二度目のベルが鳴ったとき、彼女はこう言うのだった。――
「さあ、もう一度お顔をよく見せて。……もう一ぺんよく見せて。そら、こうして」
 彼女は泣きこそしなかったが、まるで病人のように沈んだ様子で、顔をわななかせていた。
「あなたのことは忘れませんわ……いつまでも思い出しますわ」と彼女は言った。「ご機嫌よう、お仕合《しあわ》せでね。悪くお思いにならないでね。わたくしたち、これっきりもうお別れに致しましょうね。だってそうなんですもの、二度とお目にかかってはなりませんもの。ではご機嫌よう」
 汽車はみるみる出て行き、その燈もまもなく消え失せて、一分の後にはもう音さえ聞こえなかった。それはちょうど、この甘い夢見心地、この痴《し》れごこち
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