みれば、究極のところこの世の一切はなんと美しいのだろう。人生の高尚な目的や、わが身の人間としての品位を忘れて、われわれが自分で考えたり為《し》たりすること、それを除いたほかの一切は。
誰やら男が一人歩み寄って来た。きっと見張り人なのだろう。二人の様子をちょっと眺め、そのまま向こうへ行ってしまった。そんな些細《ささい》なことまでが、いかにも神秘的な気がして、やはり美しいものに思えた。*フェオドシヤから汽船のはいってくるのが見えた。朝映《あさやけ》に照らされて、燈はもう消していた。
「草に露が下りていますのね」アンナ・セルゲーヴナが沈黙のあとでそう言った。
「ああ。そろそろ引き揚げる時刻だね」
二人は町へ帰った。
その後というもの、毎日お午《ひる》に二人は海岸通りで落ち合って、軽い昼食を一緒にとり、夕食もともにしたため、散歩をしたり、海に見とれたりするのだった。彼女はよく眠れないとか、早鐘のような動悸がしてならないとかと泣き言をならべ、ときには嫉妬《しっと》ときには恐怖のあまり興奮して、彼の尊敬してくれ方が足りないという例のおきまりの難題をもち出すのだった。そしてよく辻広場や公園で、
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