が》にかけなかったばかりか、その種の話がまずたいていは、御自身その腕さえあれば悪事を働きたくってうずうずしている連中の創作にかかるものであることも承知していた。ところがいざその奥さんに、三歩とへだてぬ隣のテーブルに坐られてみると、やすやすと口説《くど》き落した手柄話や、奥山へドライヴをした話などが事新しく思い出されて、行きずりの儚《はかな》くもあわただしい関係だの、名前も苗字も、どこの何者かも知らない婦人とのロマンスだのという、誘惑的な想念がたちまち彼を俘《とりこ》にしてしまった。
 彼は優しく小犬においでおいでをして、その寄って来たところを、指を立てておどかした。小犬はううと唸《うな》った。グーロフはもう一度おどかした。
 奥さんはちらっと彼の方を見て、すぐまた眼を伏せた。
「咬《か》みは致しませんのよ」と彼女は言って、赧《あか》くなった。
「骨をやってもいいでしょうか?」そして彼女がうなずくのを見て、彼は愛想よく問いかけた、「ヤールタに見えてから大分におなりですか?」
「五日ほどですの」
「私はまもなく二週間というところまで、どうにかこうにか漕ぎつけましたよ」
 二人はしばらく黙っていた。
「日はずんずん経《た》って行きますけれど、でもここはほんとうに退屈で!」彼女はそう、彼の方を見ずに言った。
「ここは退屈でというのは、通り文句に過ぎないんですよ。早い話が、*ベリョーフだとかジーズドラだとかいった田舎町でけっこう退屈もせずに住みついている連中までが、ここへ来たが最後『ああ退屈だ! ああ何て埃《ほこり》だ!』の百曼陀羅《ひゃくまんだら》なんですからねえ。まるで*グラナダからでもやって来たような騒ぎで」
 彼女は笑いだした。それから二人は、知らない同士のように無言で食事をつづけた。が食事が済んで、肩を並べて表《おもて》へ出ると――すぐもう冗談まじりの気軽な会話が始まった。どこへ行こうと何の話をしようとどうでも結構な、閑《ひま》で何不足ない連中のやるあれである。二人はぶらぶら歩きながら、不思議な光を湛《たた》えている海のことを話し合った。水はいかにも柔かな温かそうな藤色をして、その面には月が金色の帯を一すじ流していた。二人はまた、炎暑の日の暮れたあとがひどく蒸《む》し蒸しすることも話題にした。グーロフは、自分がモスクヴァの者で、大学は文科を出たけれど現在銀行に勤めて
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