いることや、いつぞや民間のオペラで歌の練習生になったこともあるが中途でやめにしたこと、モスクヴァに家作が二軒あること……そんな話をした。いっぽう女からは、彼女がペテルブルグで生《お》い立ったこと、しかし嫁《とつ》いだ先はS市で、そこにもう二年も暮していること、ヤールタにはまだひと月ほど滞在の予定なこと、良人も息抜きをしたがっているから多分あとからやって来るだろうこと、そんな話を聞き出した。彼女は自分の良人がどこに勤めているのか――県庁なのか、それとも県会の方なのかがどうしても説明がつかず、それを自分で可笑しがっていた。グーロフはまた、彼女がアンナ・セルゲーヴナという名前だということも知った。
 やがてホテルの自分の部屋に帰ってから、彼は彼女のことを考えて、明日もきっとあの女はひょっくり自分と行き逢うにちがいないと思った。そう来なければ嘘だ。寝床にはいる段になって彼はふと、あの女がついこの間まではまだ女学生で、ちょうど自分の娘が今やっているようなことを習っていたのだとあらためて思い返したり、そうかと思うとまた、彼女の笑い方や未知の男との話しぶりには、おずおずした角《かど》のとれない様子がまだ多分にあるのを思い出し、――てっきりあの女は生まれて初めてこんな環境、というのはみんなが自分をつけまわしたり、じろじろ眺めたり、言葉を交わしたりするのも元はといえば唯ひとつ、彼女もそれと感づかずにはいられないある種の思惑《おもわく》からばっかりだといった環境に、一人ぼっちで置かれたに相違あるまいとも考えた。彼はまた、女の細っそりした繊弱《かよわ》そうな頸筋《くびすじ》や、美しい灰色の眼を思い浮かべた。
『それにしても、あの女には何かこういじらしいところがあるわい』と彼はふと思って、そのまま眠りに落ちて行った。

       二

 知合いになって一週間たった。祭日だった。部屋のなかは蒸し暑いし、往来ではつむじ風がきりきりと砂塵《さじん》を捲《ま》いて、帽子が吹き飛ばされる始末だった。一日じゅう咽喉《のど》が渇いてならず、グーロフは幾度も喫茶店へ出掛けて行って、アンナ・セルゲーヴナにシロップ水だのアイスクリームだのをすすめた。ほとほと身の置きどころがなかった。
 夕方になって、風が少し静まると、二人は船のはいるのを見に波止場へ出掛けた。船着場には人が大ぜい歩きまわっていた。誰かの出
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