その胸のうちは相変らずがらんとして、味気なく、例の苦艾《にがよもぎ》の後味がしていたし、冬は冬で彼女は窓ぎわに坐って、じっと雪を見つめている。春の息吹きがそよりとでもしたり、風のまにまに寺院の鐘の音がつたわって来たりすると、突然どっとばかり過去の追憶が押しよせて、あまく胸がしめつけられ、眼からは涙がとめどなく流れるけれど、それもほんの束《つか》の間《ま》のことで、胸のなかは再びがらんとしてしまい、何を甲斐《かい》に生きているのやらつくづく分からなくなる。黒い小猫のブルイスカが甘えかかって、ごろごろと柔《やさ》しく喉を鳴らすけれど、こうして猫なんぞにちやほやされてみたところで、オーレンカにはさっぱり有難くない。彼女の求めているのはそんなものだろうか? いやいや彼女の欲しいのは、同じ愛といっても自分の全身全霊を、魂のありったけ理性のありったけを、ぎゅっと引っつかんでくれるような愛、自分に思想を、生活の方向を与えてくれるような愛、自分の老い衰えてゆく血潮を温めてくれるような愛なのだ。で彼女は黒いブルイスカを裾《すそ》から振り払って、いまいましげにこう極《き》めつけるのだった。――
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