おいで、あっちへ……。ここには用はないよ!」
 こうして日が日にかさなり、年が年にかさなって、――なんの喜びもなければ、なんの意見というものもない。炊事女のマーヴラの言うことなら、それで結構というあんばいだった。
 七月のある暑い日のこと、ちょうど夕暮ちかくで町の家畜の群が往来をぞろぞろ追われて行き、中庭いちめんにもうもうと埃がたちこめる時刻だったが、とつぜん誰か木戸をこつこつと叩く人があった。オーレンカは自分で開けに立って行って、一目みるとそのままぼおっと気が遠くなってしまった。門の外に立っていたのは獣医のスミールニンで、もはや白髪頭になって、みなりも平服姿だった。彼女はたちまち一切が思い出されて、つい堪えかねてわっと泣き出すと、一言の口もきかずに男の胸へ顔をうずめてしまい、あまりの興奮に前後を忘れて、それから二人がどこをどうして家の中へはいり、どんなぐあいにお茶のテーブルに坐ったかも気づかないほどだった。
「まあお珍しい!」と彼女は、うれしさにぶるぶる顫えながら口ごもった。「ヴラヂーミル・プラトーヌィチ! いったいどこから、どうした風の吹きまわしでいらしたの?」
「実はここにすっか
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