ましらしい生活が、始まりかけているのだった。晩になるとオーレンカは、中庭へ下りる段々に腰をかける。するとその耳に、『ティヴォリ』でやっている音楽や、花火のぽんぽんいう音が聞こえるのだったが、それも今では何の想いをも呼びおこさなかった。彼女はさもつまらなそうな眼つきでがらんとしたわが家の中庭に見入ったまま、何を思うでも何を求めるでもなくただぼんやりしていて、やがて夜がふけると寝間へ引きとって、わが家のがらんとした中庭を夢に見るのだった。食べるのも飲むのも、彼女はまるで厭々《いやいや》やっているような様子だった。
 が、中でも一ばん始末の悪かったのは、彼女にもう意見というものが一つもないことだった。彼女の眼には身のまわりにある物のすがたが映りもし、まわりで起こることが一々会得もできるのだったが、しかも何事につけても意見を組み立てることが出来ず、何の話をしたものやら、てんで見当がつかなかった。ところでこの何一つ意見がないというのは、なんという怖ろしいことだろう! 例えば壜《びん》の立っているところ、雨の降っているところ、または百姓が荷馬車に乗って行くところを目にしても、その壜なり雨なり百姓な
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