会心理としてのひとつの重要な問題がこゝにある。そして、日本の知識階級は、たしかに「文弱」に流れてゐるといふことを遺憾ながら私は認め、自動車が飛行場へ着くと、私には一瞥もくれず立ち去つた例の将校の後姿を、しばらく苦笑を以て見送つた。
焼芋
飛び出す○○機、舞ひ降りる○○機、場内の空気はどよめき立つてゐる。
一瞬、捲き起つた砂煙が徐々にはれると、隅々に張りめぐらされた天幕の内外に、慌ただしい地上勤務兵の活動が見え、着陸点を示す紅白の吹き流しが静かに朝風に翻つて、○○大集団の基地らしい威容を感じさせる。
○○機は何処から出るのか、それを確めるために、私は一つの天幕に近づいた。
将校が五六人、その入口に佇んで空を見あげてゐる。いま離陸したばかりの一編隊がもう山の彼方に消え去らうとしてゐた。その時、私は、彼等のうちの一人に問ひかけた。
「天津行きの○○機に乗りたいんですが……」
「あ、新聞の方ですね。まあ、こちらへ……」
まだ時間があると思つたので、私は指されたアンペラの小屋のなかへはひつて行つた。見ると、真ん中に、土を掘つて炭火をおこし、その前へ椅子を引寄せてどつかと腰をおろしてゐる一将校が、穏かな微笑をもつて私を迎へ、
「新聞はどちらですか?」
「いや、新聞ではありません。文芸春秋といふ雑誌です。生憎、名刺をすつかりなくしてしまひまして……」
「あゝ、文芸春秋……。それはそれは……。記事になることがありますか?」
といふ風になかなか如才のない応接ぶりである。私は、これがG氏であるといふことはすぐわかつた。
別に一問一答をしようとは思はず、私は、たゞ、戦場に於ける一高級武官の身辺について観察することの興味で満足した。
しかし、G氏は、極めて熱心に私に話しかける。特に支那の軍隊について、その歴史的特性から説き起した一種の論断には傾聴すべきものがあつた。近代戦に於けるその訓練の程度といふ問題になると、氏は、いきなり私にかう問ひかけた。
「支那兵の構築した陣地といふものを見られましたか?」
「野戦の陣地は見ました。相当大がかりなもんですね」
「大がかりだ。その上、労力を惜しげもなく使つてある」
「まつたく、私も、作業の丹念なのに驚きました。ちよつとした散兵壕でも立派な細工といふ感じですね」
「さうでせう。あれを日本軍なら、さう易々と棄てはしませんよ。支那軍は、あんなに丁寧に作つた陣地を、どうしてあゝ簡単に投げ出すかといふと、それには、わけがある。強い弱いといふ問題以外に、陣地といふものに対する考へ方、観念が違ふんです。いゝですか、どうせ一日か二日で退却するんなら、弾丸さへ防げればよささうなもんだ。なにも、あゝ馬鹿丁寧に、定規をあてたやうに作らなくつてもよささうに思はれる。ところが、支那人は、それ、土といふものに対して、日本人の想像もつかないやうな親しみをもつてゐる。土をいぢるといふことが、ちつとも苦にならないのみならず、それは一種の日常茶飯事です。ごらんなさい、日本の子供は、たとへ百姓の子でも、転んで着物へ土がついたら、起き上つてすぐにそれを払ふでせう。これや習慣でさうなつてゐる。然るに、支那の子供はどうです。転んでも決して土なんか払はうとしない。土のなかで生活してゐるやうなもんだ。泥まみれになることは、汚いことぢやないんです。土工作業でも、日本人なら足で踏みかためるところを、支那人は、平気で手を使ふ。綺麗に仕あがるわけです」
「鉄砲を打つより、その方が面白いんでせう」
「まあ、さういふわけだ。それに、第一、支那軍はちよつとした陣地を作るのにも、そのへんの農民や苦力を大勢使ひます。たゞで使ふ。兵隊は監督するだけだ。これなら、暇をかけて、いくらでも念入りにやれるでせうよ」
朝の空気はそれでも冷いとみえて、時々、年輩の将校が火にあたりに来る。
飛行服の一将校が突然はひつて来て、一方の壁に貼りつけてある地図に向ひ、何やら説明をしはじめた。
それが出て行くと、G氏は、私を地図の前へ招き、今はひつたばかりの情報を聞かせてくれた。
私は、○○機のことが気になるので、そのことをちよつと断つてこの小屋を出た。
やつと尋ねあてると、飛行機は出るばかりになつてゐるが、天津からの気象通報で、向うは霧が深いことがわかつたので、しばらく出発を見合せてゐるといふ話であつた。
松竹映画班の一行がやつて来た。飛行機へ爆弾を積むところを写すのださうである。私も、それは見ておきたい。
○○部隊の○○機数台が、○○キロの爆弾を翼下に抱へ込む操作が開始される。
瞬きをせずに見てゐるのは辛い。
○○部隊長は、腕時計を見てゐたが、そこへ出動命令が下つたらしい。
操縦士一同は部隊長の天幕へ集合した。
「○○部隊はこれより○○方面に出動し、地上○○部隊の攻撃に協力しつゝ、なし得れば……」
若い部隊長の声は、凜然としてゐた。
「自分は××中尉機に同乗する。終りツ」
操縦士の間で、細かい合図の方法などが打ち合はされた。
油断をしてゐると、○○機がいつ飛び出すかわからないので、絶えずその方向へ眼をくばつてゐなければならぬ。藍色のいくぶん華車な胴体が、遠くからでも見分けられるのである。
○○部隊は、一機一機、同じ間隔をおいて順々に、離陸した。それがやがて、規則正しい編隊となつて、南西へ、南西へ。機上の人々の姿がいつまでも私の眼に残つてゐた。
さあ、こゝでどれだけ時間を過したらいゝのか? 出発が明日に延びるやうなことになるまいか?
もう昼も近く、腹は遠慮なく空いて来る。
私はしかたがなく、催促顔を見せに行つた。操縦士は、飯盒の弁当を食つてゐるところである。
「どうも痛くていかん。歯だか耳だかわからないんだ。とにかく、間をおいて、キリキリキリキリツと来るんだ」
そばの機関士に話しかけてゐる。見ると、どうやら熱のありさうな顔色である。
今朝から二度も○○まで往復したといへば、相当に疲れてはゐるであらう。この人がまた天津まで私を乗せて行つてくれるのかと思ふと、済まぬやうな、危いやうな気がして、
「僕、アスピリンを持つてますが、飲んでみますか?」
「いや、熱はないですよ」
アスピリンは鎮痛剤であることを知らないのであらうか。私は無理に勧めてはみなかつたが、空中で痛みが堪へられなくなつた時、飛行機はどうなるのであらうかと、ひそかに気を揉んだ。
出発の時は知らせてくれと、機関士に云ひおいて、私は、またぶらぶらそのへんを歩き廻つた。
さつきのG氏の小屋に近づいた時、私は何気なく、その中をのぞいてみた。
「まあ、はいり給へ」
「天気がよくつて何よりですな」
私は、この眠くなるやうな支那の秋日和をなんと讃美していゝかわからなかつた。
「あゝ、いゝ天気だ。どうです、これは……。戦地にゐると子供みたいなもんだ」
G氏が棒切れで灰のなかを掻きまはしてゐる、その棒の先へ転がり出たのは、うまさうに焼けてゐる二つ三つの薩摩芋であつた。
空中の論理
○○機は午後二時になつて、やつと出発した。
高度の加減か、光線の具合か、来がけに見た時よりも下界は一層単調な物の象を示すにすぎず、私は早くも退屈しはじめた。
そこで私は、ぼんやり「勇気」といふことについて考へてみた。
誰が云つたのか忘れたが、支那兵のなかにもなかなか強いのがゐて、勇敢に立ち向つて来るが、それはたゞ、向つて来るといふだけで、こつちにとつてはあんまり怖ろしくない。なぜなら、それ以上のことはできないからで、いよいよとなると、たゞ首を差しのべるだけだ、といふのである。
これがどこまでほんとだか私にはわからない。しかし、今度の戦争でも、さういふ支那式の勇気が発揮されてゐるやうに思ふ。
日本人の眼から見れば、この種の勇気は、まことにつまらぬものゝやうにとれるかも知れず、進む以上は一敵でも多くを屠ることこそ真の勇気であると考へられるであらう。
ところが、この違ひは、たしかに国民性によるものであるのみならず、軍隊としての士気、即ち、訓練と自信の相違にあること明かであつて、恐らく彼我立場をかへたならば、どういふ形で表れるか、これはちよつと判断がしにくいのである。
およそ今日、わが軍将士の眼覚ましい働きについては、これをかれこれ論ずるものもないくらゐであるが、その働きのよつて生ずる精神的な力、特に「勇気」の形に現れたところをとらへて、その質を吟味するといふことを、誰かが試みてはくれないであらうか?
私は、また嘗てある武官からかういふ話を聞いたことがある。欧洲戦争の時、各国の軍隊は、それぞれよく戦ひ、長期に亙る対陣中にも、われわれが眼をみはるやうな勇猛ぶりを発揮した。しかし、彼等が日本の兵隊と違ふところは、飽くまでも自分の「生命」を大切にすることである。生きられるだけ生きようとする努力が、常に彼等の行動を支配してゐる。死んでもかまはぬと覚悟する前に、なんとかして生きられぬかといふ工夫を忘れない。
それがいくぶん死を怖れるといふ表情を呈することもあるにはあるが、それでも危険を冒しもし、その危険のなかで最も安全な道を選ぶ判断を狂はせないことにもなる。
そこへ行くと、日本人は、死ぬことが即ち目的であるかの如き放れ業を演ずる。生命を投げ出すことが、即ち義務であり、名誉であるといふ信仰に燃えてゐる。その結果が、奇蹟的な勝利を導きさへするのである。生命への執着は、明かに卑怯と見える場所があることをわれわれは教へられてゐるのだ。指揮官が部下に「死ね」と命ずる、その象徴的な意味を、西洋人は理解し難いだらう。自分の最後を壮烈なものとしようとする祈願は、日本軍の所謂「神速な行動」の基礎である。
なるほどと、私は思つた。
が、こゝでちよつと面白いと思ふのは、日本人の勇気は、支那人のそれとも、西洋人のそれとも違ふのは確かだとして、さて、東洋と西洋とを比べてみた時、日本人と支那人とに共通なある一点が発見されはせぬかといふことである。この比較は、支那軍を敵として無理に高く評価することにはならぬと思ふ。
「生命」または「死」といふものに対する、東洋的なある種の観念が、たまたま、二つの民族の間で、別個のニユアンスをもつて、その戦ひぶりを彩つてゐるといふだけの話である。
私は別にこゝから教訓を引出さうとは思はぬ。戦ひは現に、この両民族の手で戦はれ、欧米人は、その光景に戦慄しつゝある。
われわれは、どちらかと云へば、殺戮の悲劇に眼を蔽ふことを恥ぢ、「生きんとするもの」の叫びをたまたま滑稽に感じる風習に慣らされてゐることを告白せねばなるまい。
私はまだ飛行機の上にゐるのである。外をみると、何時のまにか、もう例の大浸水地帯の上にさしかゝつてゐる。雲がきれぎれに浮んでゐる上へ、翼の影をおとしながら、高度八百の水平飛行である。
空の一角に地上の部落が映つてゐるのかと思ふと、それはやはり、水面に浮ぶ村々の眠つてゐるやうな姿であつた。それほど、眼界は広漠として高いのである。
たちまち、綿雲が地上を包んだ。その代り空は緑色に輝きだした。私は眼をつぶつて、再び瞑想に耽るより外はない。
が、それからの、とぎれとぎれの夢は、まつたく事変とは関係のないものであつた。
天津――北京
天津の街では円タクを拾ふといふことが不可能である。平生はどうか知らぬが、只今は流し自動車など一台も見当らぬ。
私の拾つた人力車は、勿論、私の言ふことは通じないらしい。
「タラチ・ハウス・ホテル」
なんども繰返したが、駄目である。
「英租界」
と、いくぶん、支那語風に発音して聞かせたけれど、車夫は困惑の態に陥るばかりだ。
「タラチ・フアンテン」
と云ひ直した。飯店とはホテルのことである。
交通整理のお巡りさんがやつて来た。
これならわかると思つて、再び、タラチ・ハウス・ホテルを繰り返した。
彼はうなづいて、車夫に何やら説明したらしい。
車夫は、「なあんだ」といふ顔をして走りだした。
が、どうも
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