方角が違ふやうである。仏租界を通り抜けねばならぬ筈だのに、日本租界からいきなり、反対の方角へ曲つて行く。
 足を踏みならして、
「英租界」
 と、私は念を押した。
 車夫は耳を藉さない。見ると、外国租界には違ひないが、こんな方から廻つて行けるのか知らと思つてゐると、眼の前の洋館に伊太利の国旗がはためいてゐる。
 どうしても変だと思つてゐるうちに、車はあるお城のやうな建物の門前へ、急に、勢よく梶棒をおろした。
 広い中庭を前にしたそのクリーム色の総二階建は、軽快な円柱をアーチで結んだ如何にも南国的な廻廊に取巻かれ、その廻廊のところどころに、軍服姿の白人が、或は談笑し、或は靴を磨きしてゐた。
 云ふまでもなく、こゝは、伊太利駐屯軍の兵舎なのである。
 間違ひもかうなると愛嬌で、私も一向不満には思はなかつた。わざわざは来ないであらうところを見物させてくれたわけだから、賃銀を倍にしてやる決心をした。
 やつとその辺を通りかゝるインテリ風の支那人に、手帳を出して“Talati House Hotel”と書いてみせたら、車夫にそれを説明してくれ、車夫は、さもがつかりしたやうな表情で汗を拭いた。
 泰来飯店《タラチフアンテン》では私の顔を覚えてゐて、マネエヂヤアもボーイも愛想よく迎へてくれた。
 上海の外国租界では、かうは行かぬらしい。殊に香港では、うつかり日本人などは街を歩けないといふ話も聞いた。いや、そればかりではない。天津や北京でも、事変前の空気はまるで違つてゐたやうである。ある日本人が人力車に乗らうとして賃銀をかけあふと、普通なら十銭ぐらゐのところを五十銭出せといふ。で、それは高いと云つたら、そんならこつちが五十銭出すからお前車を挽いておれを乗せて行けと云つて、空嘯いたさうだ。
 勿論、こんな話はざらにあつたらう。ところが、今では、それが信じられないくらゐである。日本人としては一応住みよくなつたと云ひ得る。が、それで安心はできないやうに思ふ。支那人の「時勢」に順応する力は恐ろしいものだといふことを知りさへすればいゝのである。彼等は、少しも変つてはゐないと、私は判断してゐる。保身の術を心得きつた民衆の、季節的な化粧を見るばかりである。
 たゞ、日本人などに、それがどうかすると彼等を与し易しと感じさせる場合がありさうだ。忍ぶべからざるを忍ぶ、その程度が、あまりにわれわれとかけ離れてゐるからだ。日本人ならば歯を食ひしばるであらうところを、彼等は、ポカンと口をあけてゐるのである。日本人なら、すぐに後を向いて舌を出すところを、彼等は、夜、寝床へはひつてからででもなければ、それをやらないだらう。
 彼等が、日本軍の勝利をどう思つてゐるかといふこと、これは、さう一般的な問題として取りあげる必要はない。たゞ、支那を負かした日本が、将来、如何なる態度で、北支民衆の上にのぞむかといふ、そのこと自身が、彼等を永久の味方にするか敵にするかの分れ目だと思ふ。
 彼等に民族意識や国家観念がないといふ説も極端だし、彼等が抗敵精神に燃えてゐるといふ見方も度が過ぎるのではないか。すべては、日本人の標準で推しはかることは誤りのもとである。
 欧洲のやうなところでも、つまり、あれほど近代国家としての発達を遂げた国々でも、さういふ点になると、案外、矛盾した現象を屡々見せつけることは、いろんな物の本にも現れてゐるのである。
 モオパツサンの短篇など読むと、普仏戦争を題材にしたものが多いなかに、愛国精神と超国境的親和とが、同じ環境、同じ人物のなかに微妙な混りあひを示してゐることを誰でも感じるであらう。それは、或る場合には当然であるが、ある場合には、日本人の考へ及ばないやうな奇怪な場面をも繰りひろげるのである。
 欧米人が戦闘員と非戦闘員の区別をあんなにやかましく云ひたてるのは、やはり、日本的感情ではちよつと始末のできないものがあるのであらう。
 天津から北京への汽車は、平時と違つて、今は日に一度、それも、六時間たつぷり見ておかねばならぬ。
 前線へ出るときとはまた違つた興奮を以て、私は、北京といふ「万人渇仰の古都」を胸に描いた。
 乗客は日本人が大部分を占めてゐるやうに思はれた。しかし、駅々のプラツトフオームを見ると、大きな風呂敷包をかついだ支那人の数も相当に多い。
 満鉄の経営にうつつてから、この列車にも満洲人のボーイが乗り込み、日本語があまり達者なので私ははじめ日本人だとばかり思ひ込んでゐた。
 北京に近づくに従ひ、沿道の眺めは却つて物寂しく、秋の色が次第に深くなつていくやうに思はれた。それにしても、木の葉はまだ枝をはなれず、黄一色の濃淡に染めわけられた大自然は、巧まない絵のやうに奥床しい。
 が、いよいよ、北京の城門が見え、列車が駅の構内へ突入すると、私は、一種名状しがたい錯覚に陥つた。
 アメリカ国旗を立てた大型のバスが、処もあらうに、プラツトフオームの上を悠々と走つてゐるのである。

     巡査の棍棒

 私がのぞいてゐる列車の窓口へ、GRAND HOTEL DE PEKIN と金文字で書いた帽子をかぶつた男が首を出したので、私はこれに黙つて荷物を渡した。
 駅の出口には人力車が殺到して身動きができないやうな有様であつたが、私はやうやくホテルのバスが待つてゐるのを見つけ、その方へ歩いて行つた。
 バスが出るまで私はしばらく駅前の光景を眺めてゐた。
 一人の巡査が棍棒を持つて群がる人力車を追ひ払つてゐるが、前を追ひ払ふと、後から、右を制すると、左からといふ風に、人力車は死にもの狂ひで客を目がけて突進して来る。巡査は、それらの車をいちいち押し返す。押し返されても、隙をみてまた走り出る。巡査は、いよいよ棍棒を振りあげる。相手はひるまない。すると、巡査は、躍起になり、声をからして、地団太を踏む。しかし、振りあげた棍棒は、決して人間の上へは打ちおろされない。幌とか梶棒とかを申訳のやうに叩く。車夫たちは、だから、痛くも痒くもない。遮二無二、割り込まうとする。巡査は、最後の手段として、車の上のクツシヨンを後ろへ放り出す。流石にこれは困るとみえ、車は一旦後ずさりをする。一度に幾十台といふ車が駈け寄つて来ると、一人の巡査では喰ひ止めやうがない。なかには、素早く客を拾つて走り出すものがある。巡査は恨めしさうにそれを見送る。
 いつたい、どういふ規則になつてゐるのか知らぬが、かうまで巡査の威令が行はれないといふのは、抑も事変の影響であらうか。
 それにしても、相手は人民、こつちは、役人である。職権をもつて、取締りができぬわけはなささうに思はれる。「断乎たる」処置をなぜ取らないであらう。
 焦《じ》れつたい話である。が、事実は、この通りで、巡査は堪忍袋の緒を切らず、車夫どもは反抗の限度を守つてゐるのである。
 従つて、最初はすさまじいものだと思つてゐたのが、だんだん、なんでもないことになり、いつたい構内人力車取締規則といふやうなものがあれば、それをちよつと聞きたいものだと、私はひとりでに微笑が浮んで来た。
 誠に支那といふ国は妙な国である。かねて規則ぎらひとは聞いてゐたが、かうまで世話がやけるなら、もうちつと方法がありさうなものである。私が云ふのは可笑しいが、ちやんと駐車場でもこしらへて順番に車を呼び出すやうにすればなんでもないぢやないか。お巡りさんも、自分でそれぐらゐの智恵をしぼりさうなものである。ところが、そんなことは考へもせず、さうかと云つて、不埓な人民に棍棒の一撃を喰はすでもなく、たゞ、その時々に、効果の少い同じ骨折りを繰り返してゐるのは、悠長千万な話である。しかし、見やうによつて、これこそ馬鹿にならぬ風習だと、私はつくづく感じ入つた。なぜなら、人力車夫の取締は罰則を設けさへすれば容易にできるが、巡査が、彼等の無秩序を「殴つて」まで懲らしめようとしない、その平和主義は、一朝一夕の訓練で得られるものとは思はれないからである。
 もちろん、その反面には、万一、巡査が暴力を振つたとしたら、あとの祟りが怖ろしいといふやうな事情があるかも知れぬ。それはつまり警察力の微弱を語るものであらう。
 問題は、だから、そんなところにあるのではなく、かゝる無秩序そのものが、支那人の神経をさほど焦らだたせないのだと見る方が当つてゐるかも知れぬ。それゆゑ、どうかしたらよささうなものだと思ふのは、実は、こつちが見るに見かねてさう思ふのであつて、支那の巡査は、なに、これぐらゐのことはなんでもないと、案外、芝居をするやうなつもりで、ひと通りの役目を果してゐるのだとしたら、更に、支那といふ国は、恐ろしい国だと云はねばなるまい。
 バスには私のほか、四五人の日本人が乗り込んだ。こつちも別に口を利かうとは思はず、向ふも、私の存在に注意を払ふ様子はない。同じ外国の旅でも日本が近すぎ、日本人を見あきてゐるせゐであらう。
 古色蒼然たる大型バスを、でつぷりと肥つた運転手が、急がず慌てず操縦する。乗心地はさうわるくない。
 厚い壁の上に葉の細かな並樹がしつとりと枝を垂れ、街は人通りがすくなく、乾いた路面が煙つたやうに長く続いてゐる。朱塗りの門をはひると、公園のやうな広場へ出るが、そこはもう、北京ホテルの前庭である。
 堂々たる四階建の洋館が、なんと、がさつに見えることか。正面の廻転扉を押すと、中は国際色に満ちた大ホールである。西洋人の幾組かが茶を飲んでゐる。日本の将校が二人、中央の階段を駈け上る。帳場では、英仏日支の国語がちやんぽんに使はれてゐる。両替をするところがある。欧洲語書籍の売店がある。土産物の陳列棚と、その番をしてゐる支那娘がある。
 私は三階のひと部屋をとつた。
 このホテルは日本婦人を細君にしてゐるフランス人が経営してゐるのだといふ話を聞いてゐた。そこで、はしなくも、私は近代支那の一享楽主義者が発した言葉といふのを思ひだした。曰く、「この世の幸福は、洋式の部屋に住み、日本の女を妻とし、支那料理を食ふことに尽きる」と。
 ボーイがぞろりとした支那服で、怪しげなフランス語を使ふのをみてゐると、こつちは馬鹿に気が楽になる。嘗ての放浪癖が頭をもたげて、早くも、私は、「故郷を失つた人間」の気持にひたる。

     慈善興行

 日本を発つ時、阿部知二君から、北京へ寄るのだつたら是非この人に会へと、わざわざ紹介の名刺を貰つて来てゐるので、ともかくそのS・O氏と連絡をとることにした。何時何処でお目にかゝれるかと手紙にしてメツセンヂヤア・ボーイを走らせたのである。すると、間もなく、こつちから出向くといふ丁寧な返事に、私は大いに恐縮した。
 O氏は、支那文学を専攻する慶応の若い教授で、なんの予備知識もない私に、「これが北京だ」と教へて誤らざる人だと阿部君はにらんだのであらう。
 事実はその通りで、私の勝手気儘な註文にも拘らず、実用と趣味の両方面から、極めて豊富かつ適切なプログラムを作つてくれた。
 私は先づ、滞在日数の極めて少いこと、「事変」に関係ある範囲で会ひたいと思ふこれこれの人々があること、名所旧跡はこの際強ひて見たいと思はぬこと、それよりも「北京の現代相」といふやうなものについてひと通りの概念を得たいこと、序があつたら古物商を一二軒のぞいてみたいこと、等を述べたのである。
 北京へ来て名所旧跡を二の次ぎと考へる私の料簡を、氏は多少遺憾に思つたらしい。私もまた、それは好意ある案内者への礼でないことをぢゆうぢゆう知つてはゐるが、今度の旅行の目的を忘れてはならないのと、もうひとつは、従来の経験に徴すれば、私は、所謂名所旧跡といふものに接して、真に心を豊かにした記憶がないのである。
 それはさうと、O氏は、同伴の支那劇研究者H・N氏を私に紹介し、その晩、丁度いゝ芝居がかゝつてゐるから、一緒に観に行かうと云ふ。そして、晩飯は、両氏の宿で家庭料理を御馳走しようといふ、結構すぎる提議に、私は快く応じた。
 さて、その芝居であるが、当夜は、北京市政府社会局主催の義務戯(慈善興行)の第二夜で、しかも、二日しかやらぬそ
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