の興行は、年に一度のオール・スタア・キヤストだとのこと、北京の名優をかうして並べてみられるのは運のいいことだと云へば云へる。
 元来、私は支那芝居といふものを、専門的な立場からもあまり重要視してゐないし、嘗て上海で観た相当いゝ芝居といふのも、その時の印象では、ちつとも面白くなかつたのである。勿論、研究をした上での批判ではないから、大きなことは云へないけれど、形式から云へばまづ歌劇の部類にいれるべきであつて、「演劇そのもの」としての価値は低いものと断言して憚らなかつた。殊に、歌詞がまるで解らないと来ては、音曲としての縁遠さは別にしても、われわれの興味を惹く何ものもないと高を括つてゐた次第だ。
 ところが、N氏の説明をきゝ、台本のあらましを読み、俳優の閲歴、芸格など、大急ぎではあるが大体呑み込んだ上で、いざ、舞台を眺めてゐると、こいつは馬鹿にならんぞといふ気がして来た。
 観客席は超満員である。しかも入場料は、平生とくらべものにならないほど高いのである。支那人、殊に、北京人の芝居好きは底知れずと云はれるだけあつて、国家の安危を打ち忘れての陶酔ぶりである。
 贔屓役者が出て来たり、いはゆる「見せ場」「聴きどころ」といふやうなところへ来ると、あちこちで、「好々《ホーホー》」と声がかゝる。
 椅子席の前に、狭い板が渡してあつて、それが卓子の代りになる。売子が茶を持つて来る。菓子や果物を置いて行く。いらぬと云つてもなかなか承知しない。
 舞台では、三国志の一節が物語られてゐる。「撃鼓四馬曹又は群臣宴」といふ外題である。女優が髭の生えた男の役をやつてゐる。
 舞台裏から平気でこつちをのぞき込んでゐるものがある。それどころではない。舞台の隅へはみ出して来る奴がゐる。道具を出したり引つ込めたりする男が、早く云へば小道具方が、まるで自分の家を片づけるやうな歩きつきで、役者の間をうろつき廻る。
 ひと節歌ひ終ると、役者は後ろ向きになつて差出された湯呑みの湯を一杯飲む。口髭のあるのは、その口髭を頤の下へ外すのが見える。女の役は、それでも、袖屏風をつくる。
 支那芝居の講釈は怪しいからやめる。名優と云はれてゐる二三人は、なるほど、役者としての魅力で私を惹きつけた。程硯秋といふ女形は、N氏に従へば、「現在北京で聴かれる名旦中での第一人者、その名海外に知られてゐることは梅蘭芳に次ぐ」とのことだが、次に紹介する「珠痕記」といふ芝居のなかで、春登の妻に扮し、遺憾なくその才色を示したやうに思つた。
 支那芝居の面白さは、N氏ぐらゐにならないと、外国人には隅々までわからぬことは当然と思はれるが、とにかく、かういふ種類の芝居を今もつて無上のものと心得てゐるところ、支那の好みが窺はれて、それだけでも大いに参考になつた。
 試みに、多分N氏の筆になるものらしい当夜の番附にのつてゐる上記「珠痕記」の筋書を写してみる。

 人物
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朱春登       老生 譚富英
趙景棠(春登の妻) 青衣 程硯秋
中軍(春登の部下) 浄  侯喜瑞
朱春登の母     老旦 文亮臣
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 山東の人朱春登は叔父に代つて出征し、老母と妻君を家に置いて、十数年帰つて来ない。其間に叔父は物故し、従弟の春料は科挙の為め京都に流寓する。それで春登の叔母宋氏は家政を壟断し、春登からの音信を没収して、趙氏には春登が既に戦死したと偽り、自分の甥宋成と再婚するやうに迫る。趙氏が肯じないので姑と一緒に追出される。二人は初め羊を飼つて糊口してゐたが、終にそれも出来なくなつて乞食になる。
 一方春登は戦功を建て、平西侯に封ぜられ、春料も官を得て、兄弟揃つて故郷に錦を飾る。宋氏は春登に、彼の母も妻も既に死んだといふ。断腸の思ひで春登は母の霊前に痛哭する。此処の唱は中々聴ける所である。至親を失つた春登は失望落胆、出仕の意なく、隠遁せんと決心する。その前に故人の冥福の為に我家の墓前で蓆棚を設け七日間の施食をやる。其時既に遠地に流離してゐる趙景棠とその姑は、神力に助けられ、蓆棚の前へ来て、何も知らずに乞食する。食べてゐる中に、墓前にある槐の木を見て我が家の祖墓なるを知り、吃驚して碗を落す。その為に中軍に酷く叱られるが、中軍は貧民をいぢめたかど[#「かど」に傍点]で却て春登に罰せられる。さて春登が件の乞食を呼んで事情を聞いてみると、どうも自分の妻君らしい。終に我が妻の左手に赤いあざのあつた事を思出し、乞食の手を見せて貰ふ。間違ひない。それで愈々名乗つて母親にも邂逅する。珠痕記なる名前を得た所以である。この夫妻相認の場が此芝居の絶頂で、譚富英と程硯秋とのコンビは得難い絶唱である。
 再び母と妻を得た春登は叔母を呼んで問ひ糾すが、中々泥を吐かない。おまけに、「自分に若しそんな事があつたら竜にさらはれてもよい」と天に誓ふ程の図太さであつたが、誓ひの言葉が未だ終らない中に、本当に竜にさらはれて行く。

 筋は他愛のないものだが、歌を聴くのが主だと云はれてみれば、それまでの話である。しかし、歌を唱ひながら、それぞれの役柄に応じて、型の如き身振りをするのだが、その身振りは、身分、年齢、性格、殊に、青年男女の性的魅力を、極めて端的に、しかも微妙に現はすこと、わが歌舞伎劇の手法に酷似し、更に私の観察では、若い女の媚態を形づくる線の動きは、不思議に日本の伝統的な女性美の標準と一致するものがある。云ひ換へれば、西洋の如何なる芝居に出て来る女も、コケツトな表情の百姿百態を通じて、まつたくこれと共通したものをもつてはゐないことを注意すべきである。
 それともうひとつは、役者の見得の切り方であるが、あの瞬間の動きと「きまり方」の呼吸は、これまた、日本の歌舞伎と支那劇との性格を近づけてゐる。
 この発見は、恐らく、私を途方もない仮定に導くやうに思はれる。といふことは、わが歌舞伎劇なるものが、案外、今日まで信じられてゐるのとは反対に、直接支那劇の影響を受けてはゐないかといふことである。
 さもなければ、両国民の伝統的な生活感情は、種々相距る外貌をもつに拘はらず、少くとも、異性理想化の一点で、隣国に応はしい接近を示してゐると云はなければならぬ。
 まあ、この議論は将来N氏にお委せするとして、私の支那芝居見物記はこのへんで切り上げることにしよう。

     女学生の作文

 忘れようと思つても忘れられません。私達はいつ迄も七月二十七八日の爆声を記憶するでせう。
 あの日私の父は私達に言ひました。
「我々は明日は天津に避難しよう」
しかし私達は父に反対して言ひました。
「あたしは行かない。同《とも》に国難に赴くのよ」
 私達だつてやはり死にたくはありません。しかし避難[#「避難」に傍点]、この二字はどうも聞き苦しい。
 数日たつて新聞に天津の戦禍が報ぜられてゐた。
「※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]呀《ヤレヤレ》、天津に避難して行つた人はみんな死んぢやつたよ」
 と、父はこの一語を云つてニツと笑ひました。
          ×          ×
 私の家には姪が沢山にゐます。私よりたつた一つ年下の姪は或日旗行列に参加しました。彼女は一日中街を歩き廻つたので迚も疲れてゐた。
「お前達はどこへ行つたの」
 私がかうたづねたけれども彼女は答へなかつた。室の中が一種の淋しい空気で一杯になつた。私は二度と訊かなかつた。
 暫くすると彼女は自分から旗行列の感想を話しだした。
「今朝私達は学校に行つた。しかし何のためだか知らずに行つた。先生が来いと云つたから私達は行つた。
 校長先生は一言もものを言はない。たゞ沈黙のうちに私達に旗を渡した。私達学生も旗を受取つて一言もきかうとしなかつた。旗の上には『○○○○○』と書いてあつた」
 校長も説かず、生徒も問はず、各人が暗黙の裡に旗行列に行つたのださうだ。
 私はこの姪の言葉を開いて心中非常に痛快であつた。
「叔母さん、あんたの学校は何故行かなかつたの」
 彼女が私にかう訊いた。
「私の学校は行かなかつた。去年お前達の学校が排日のデモンストレーシヨンの時にも私達の学校は行かなかつた。去年お前達は大きな声で旗を振上げながら『みんな起ち上れ(大家起来)』の一句を叫んだではないか。しかし私達の学校は参加しなかつた。それだから今日もやつぱり参加しなかつたのだ」
「叔母さんの学校はいゝわね」
「去年お前達はどう云つた、私はおぼえてゐるよ、あなたの学校は不好《ブーハウ》と云つたでせう」
「……」
「お前達は知つてるの、お前達の排日デモンストレーシヨンが今の戦争を惹き起したんだつてことを」
 姪は首を垂れて何も云はなかつた。しかし心中甚だ不安の様だつた。
          ×          ×
 うちの兄がラヂオを一つ買ひました。米国のフイルコ会社の製品ださうだ。一寸ヒネつて燈をつけると、世界各国の音楽が聴けるさうだ。そのラヂオは大変高い。兄は三百円つかつたさうだ。
 兄はなぜこのラヂオを買つたかといへば、英米の放送局の音楽をきゝたいからではない。私は夙《とう》から知つてゐる。彼は南京の放送局からニユースを聴かうとしてゐるのだ。
「駄目だ、聞えない」
 或晩、かう叫んで彼は癇癪を起した。
「誰かゞチーチーペンペンとラヂオの放送を邪魔してやがる。一言も聞えやしない」
 兄はそれからスヰツチをヒネつてもみない。ラヂオは床の上に淋しく立つてゐる。その函の上には埃が一杯たまつてゐる。
 私はこのラヂオを見て、
 ――国家の地歩はどこ迄落ちゆくのであらう(国家地歩落到那辺)――
と、独り問ひ独り嘆じて心中不安に堪へないものがあつた。

 これは、北京の崇貞学園といふ邦人経営の女学校を訪ねた時、校主の清水安三氏が私に訳しながら読んで聞かせてくれた一生徒の作文である。「時局感想の断片」といふ題がついてゐる。
 清水氏の事業と、事変勃発当時のその行動を、私は氏の発表した文章で知つてゐたから、北京に着く早々、同学園を参観かたがた、氏の話を聴かうと思つて、朝陽門外の東堂子胡同といふところへ出掛けて行つた。
 附近は場末らしいごみごみしたところであるが、学園は二階建の瀟洒な洋館と、これに続くバラツク二棟がわりに広い敷地のなかに建てられてゐる。
 全級を六級に分け、小学から中等科程度の教育を施すやうになつてをり、生徒は悉く支那少女ばかりで、先生も私の見かけたところでは、若い支那婦人のみのやうであつた。
 清水氏は基督教の牧師であり、支那の貧民の子女を、彼地ではまつたく望んでも得られない文化的恩恵に浴せしめようといふ発意から、この学校の経営を始めたのださうである。十数年の闘ひの後に、遂に、こゝまで漕ぎつけたのだと、氏は述懐しながら、綺麗に磨かれた校舎のなかを案内してくれた。
「事変後、生徒の数は変りはありませんか。多少減つたでせうね」
 私の問ひに、清水氏は、得意らしい微笑を浮べ、
「ところが、ちつとも減りません。なるほど、例の通州事変の後、一時、この界隈に匪賊化した敗残兵が出没して、夜道はむろん危険ですし、何処の家でも戸を閉めて子供を外に出さないことがありました。それが一週間も続きましたかな。この間、生徒がぐつと減りました。が、それも、だんだん落ちつくに従つて、もともと通りになりました」
「すると、生徒の父兄は、この学校を信じきつてゐるわけですね」
「事変前の空気にくらべて、今は却つてよくなつてゐるくらゐでせう。私の仕事も、ですから、ずつと楽になると思ふんですが、或る意味では、かういふ特殊な事情を背景に、自分の仕事を発展させる野心など私にはないのです。寧ろ、これからは、もつと奥へはひつて行つて、未墾の土地へ根をおろさうかと思つてゐるくらゐです」
「こゝで女学校程度の教育を受けたものは、どういふ将来が約束されるのですか」
「なにしろ、殆ど家庭的には恵まれない女の子たちばかりですから、大がいは、職業につきます。希望者は日本へ送つて高等の教育を受けさせるやうにしてゐます」
「今、読んでいたゞ
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