いた作文で、ほゞ見当はつきますが、日本といふものを、どういふ風に考へさせるかは、なかなか、むづかしい点ですね」
「さう、それです。私は、直接に日本の宣伝はいたしません。日本人の一人が、献身的に、支那人の幸福と利益とを計つてやつてゐるといふことが、なにより日本をよく理解させる結果になると思つてゐます。私は、修身の時間に、よく、あなた方はもつと自分の国を愛さなくてはいかん、と云つて、生徒の愛国心についても、良心的な指導をしてゐるくらゐです。実際、こゝに来てゐる女の子たちは、支那といふものに対して無関心なのが多く、私はそれを心配してゐます。今の作文が、まづ例外と云つていゝくらゐ、支那人としての気持を表はしてゐると思ひます」
「支那側から学校に対して、何か干渉めいたことをしませんでしたか、事変前など」
「いろいろありました。しかし、いやがらせ程度のことで、別にそれ以上の圧迫はありませんでした。とにかく、父兄の支持は今日では絶対です。といひますのが、たゞで学問を教へてやるばかりでなく、家の手助けにレースを編むことを教へてゐますから、それがだんだん一軒一軒ひろがつて、近頃では、この界隈の名物のやうになり、年々相当な金がはひるのです。数年前は貧民窟であつたのが、今では、裕福な暮しをしてゐる家が随分あります」
「さうして支那の少女たちにいろいろなことをお教へになつて、これはちよつと勝手が違ふなとお思ひになつたことはありませんか」
「さう、一度、ずつと以前ですが、どうも理由がわからずに生徒が減つて来るので、不思議だと思つて調べてみると、父兄の間で、こんな意見がひそかに持ち上つてゐたことがわかりました。といふのは、あの学校はほかに不満はないが、たゞ習字に力を入れんから困る。習字といふのは、支那では大事なんです。私は、それをうつかり忘れてゐました。といふより、今の時代にそれがそんなに必要なこととは思はなかつたんです。ところが、父兄にとつては、子供が、学校へ行きながら字が何時までも上手にならなくては困るんです」
「生徒の顔をみると、みんなそれぞれに好い顔をしてゐますね」
「どれも可愛らしい顔をしてるでせう」
傍らからO氏が附け足した。
「北京といふところは、かういふところです」
つかめない文化工作
現地に於ける文化工作のイデオロギイといふやうなものを聞ければ聞きたいと思ひ、私は、二三の日本側の主要人物を訪れた。
誰がどう云つたといふことをこゝでいちいち言ふ必要はあるまい。
――雑誌に書くんだらう。それぢや、話すわけにいかん。もう少し待つてくれ。
――文化工作なんて、まだ早いよ。なんにもそんなことは考へてゐない。今は戦争の最中だ。非文化的なことをやつとるんだ。毀す一方さ。ハヽヽ。
――われわれは、戦争の方は引受ける。あとは、誰か出て来てやつてくれるだらう。
――いつたい、内地で、かれこれ云ひすぎるよ。一種の自己満足だ。知識階級にはさういふ傾向が多くていかん。こいつは相手を乗ぜしめる隙になるといふことがわからんとみえる。怪しからんよ。当分、出先のものに委せておいたらどうだ。
――大学か、大学なんか、こゝにはいるまい。奴らにそんな智恵をつけてなにになる。だが、これや、まあ、どうなるかわからん。
――自然発生的なものが一番いゝと思ふんです。そのうちから、われわれが、これとこれといふ風に撰択するより外ありますまい。無理に作り上げたり、お膳立てをしてやつたりする方法は避けたいと思ひます。
――文化工作は、今着々計画を進めつゝありますが、抑も北支なるものは、歴史的、地理的、風俗的に、支那の他の如何なる部分とも区別さるべき特性があることは云ふまでもありません。従つて、政治、経済、文化の諸部門に於て、その特性を生かすことを先づ考へねばならず、それがためには従来の対支観念を清算して……。
――役人のやることは一から十まで駄目、民衆と民衆との結びつきを土台として、将来の北支文化なるものは建設されなくてはならんと思ふのですが、それがためには、……云々。
内地ばかりでなく、こゝでも、かれこれと云はれてゐるのを、私は当然なことゝ考へた。
みんなが真面目に日本と支那のことを考へてゐてくれるなら、私ごときが、なにも心配することはないといふ結論に達し、なまじ好い加減な予想など植ゑつけられないうちに、遠くから大勢の定まるのを見てゐた方がわれわれには面白いかも知れぬと、私は、ひとまづこの政治的雰囲気から逃れ出た。
O氏は、私の公用(?)が済むのを、いつもほつとしたやうに迎へてくれる。
「さあ、これからどこと、どこを廻つて……」
といふ風に、なかなか時間を無駄にしない。
「えゝ、えゝ、あとは君の連れて行つて下さるところへ参ります」
と、私は、心の中で答へる。
が、もう日が暮れかけて来た。
連れて行かれたのは、清華大学教授、日本文学に精しいといふ銭稲孫氏の家である。
この種の会見は、私の方では全く北京へ来るまで勘定に入れてをらず、従つて、質問の準備もない。第一、私は、この事変下の感情をなんと云ひ現すべきかを知らないのである。月並に、「誠に困つたことになりました」とでも云はねばならぬとすると、それは、一層困つたことである。
「初めまして……」
と、私は日本流に挨拶した。
銭氏の温厚君子の如き顔は、心もち緊張したやうに見えた。
「何時こちらへおいでになりましたか?」
「は、昨日……」
と、外国人らしく私は答へた。が、何しに来たと訊かれない先に、私は、率直に、旅行の目的を述べ、北京で先生にお目にかゝれたことは、この旅行の一大収獲だとお世辞を云つた。
やはり、なんとなく、話がしにくいのであらう。銭氏は、いく度も眼をつぶつて考へ込んだ。
「今度の事変は国民と国民との争ひではないと、両国の政府は声明してゐますが、私もそれを信じた上で今度の旅行を思ひたちました」と、私が云ふ。
「日本も支那も、この機会に、なすべきことはたゞ二つだと思ひます。即ち、忘れること、反省すること、たゞこれだけです」
「先生の御意見は、甚だ東洋的で結構だと思ひます。私は、御国の知識階級が殆ど北京を去つてしまつたといふ話を聞いて、非常に悲しく思ひました。この状態は永く続くでせうか?」
「さあ、わたくしにはわかりません」
「先生はイタリイにもおいでになつたさうですね」
「父が公使をしてをりましたから……」
「ずつと北京においでになるおつもりですか」
「なんにもすることがなければ、田舎へ引つ込みます。私の眼の前は、いま、真つ暗です」
相手を識らなければ、何を話してもまづいやうな気がして、私は遂に黙つた。銭氏の今までの仕事について、皆目知識がないことを私は悔んだ。なんでもダンテの「神曲」を訳してゐるといふことは知つてゐたが、話を六百年前に戻す法はないのである。
O氏が、四方山の話をしてくれる。
その間、私はぼんやり、部屋の隅々を見廻し、支那文人の住居らしい、それでゐて、どことなく欧羅巴に通ずる何ものかをひそませた生活様式に興味を覚えた。
不躾な訪問を謝して外に出ると、細い露地は暗く霞んで、街の子らが車の周囲を取巻いてゐる。
誰がなんと云はうと、この風雲の下で私と銭氏との立場は明かに違つてゐるのである。万が一、彼の眼に、戦捷国民の思ひあがつたひとつの顔が映つたとしたら、私は穴にでもはひりたい。
代表的な北京料理を食べたいといふと、O氏は、それなら、食通のW君を呼んで献立の註文をしてもらはうと云ふ。それほどのこともあるまいと思つたが、W君といふのは日本に留学してゐたお医者さんで、気骨のあるさつぱりした人物だといふから、話ができればそれも面白からう。
料理屋の名は忘れた。所謂「うまいもの屋」といふに応はしい小さな構への、体裁お構ひなしといふ店である。屏風で仕切つた奥のテーブルに着く。
W君はやゝ遅れてはひつて来る。
ざつくばらんな調子で、いきなり現在の心境を語る。
「しかし、いま北京にゐるといふだけで、僕などは、南からは睨まれてゐるでせう。うつかり上海へでも行かうもんなら、首がなくなるさ。北京も変るでせうね。どう変るか。北京人は北京が好きなんだから、そのつもりで、あんまり滅茶なことはやらないでほしい。僕は政治なんかに興味はない。だから、まだいゝ、かうして平気でゐられるんです。こゝまでは民衆も黙つてついて来るだらう。あとを、日本がどうするかだ。どういふ態度で民衆にのぞむかです。被征服者扱ひはよくない。忍ぶといふことにも限度があるからね。この間、保定が陥落した時、ほら、こゝで旗行列をやつたでせう。誰が考へ出すかね、あゝいふことは? 上の方ぢやない、それはたしかだ。行列に加はつたのは、小学校の生徒とあとは……。まあ、これや大した問題ぢやないがね。僕は、看板と標札を外して天津へ行つてたよ、その日は……。……………れないからね、かういふことは。日本のためにも考へるべきことですよ」
料理が運ばれた。豆腐と茸の清汁、鰻のシチユウなど珍味である。
「日本には、僕の尊敬する先生もをられるし、世話になつた人達は、みんな僕の心のなかに永久に生きてゐる。日本にゐる日本人は、懐かしい。だが、北京はどうなるのかね。僕が住めなくなるやうな北京に誰がするのかと思ふと、淋しい気がするね」
彼は急に聴き耳をたてる。そして、私たちの方へ、眼で用心しろといふ合図をする。何者かが秘かに私たちを狙つてゐるとでも云ひたい表情である。私は、正直なところ、ギヨツとした。「藍衣社」といふ言葉が咄嗟に頭に浮んだ。
「あの話声は日本人ぢやないか」
さう云つて、屏風の向うを頤で指し、W君は大きく眼をむいた。
市中見物
翌日は自動車で市中を見物した。
民衆娯楽場とも云ふべき鼓楼では、車を降りて屋台店の間を縫ひ、掛小屋の芝居をのぞき、文字通り支那群衆に取り巻かれて、私は少しも不安を感じなかつた。勿論、それはO氏の平然たる態度に影響されてのことであるが、この印象は貴重なものであると信じる。仮面は仮面であらうとも、それはもはや仮面としての欺瞞性をもたないところに達してゐるのである。
名所旧跡も此処だけはといふので、今は公園になつてゐる旧王城の内苑に杖を曳き入れた。
一番高い丘の上から見おろす天下の名宮は、たゞ仰々しく子供じみ、秋の陽を浴びて五彩に輝く棟の重畳が、怪奇な歴史を秘めてはじめて感傷の一つ時を愉しましめるていのものである。
これに反して、半ば色の褪せた廻廊を伝ひ伝ひ、広々とした池のほとりへ出ると俄然、趣きが一変する。
幽邃とは云へぬが、物寂びた豊かな眺めである。
渡し船がある。切符を買つて、それへ乗り込むと、あとから、伊太利の水兵七八人が、どやどやとはひつて来た。
一人が写真機を取出して、仲間を写しにかかつた。われわれは邪魔にならぬやう席を立たうとすると、そのまゝでをれといふ合図をする。
「君たちは天津からやつて来たのか?」
とフランス語で問うてみたら、
「さうだ」と答へた。
更に、私は、訊ねた。
「われわれが日本人だといふことを君は識別し得たか?」
「もちろん」
と、その水兵は愛想のいゝ返事をした。そして言葉をついだ。
「われわれは今度の事変で、こつちへ送られて来たのだが、君たちの国へも是非行つてみたい」
「君たちの艦長がそれを欲しさへすればいゝのだからね」
と云つて、私は笑つた。すると、その問答の意味を仲間に伝へたらしく、みんな声をたてゝ笑つた。
私は調子にのつて、
「僕は欧洲大戦の直後、伊太利へ旅行したことがあるが、南部チロルのメランといふ町は、丁度、君たちの国の軍隊が占領してゐて、君たちが今、天津や北京でみるやうな光景を呈してゐた。チロルの平和な自然と国民的デモンストレーシヨン……。軍楽隊のマーチがいつまでも耳に残つてゐるよ」
通訳がすむと、一同は、大きく眼を見張つていくどもうなづいてみせた。気持のいゝ青年たちであつた。
船が対岸へ着くと、彼等はめいめ
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