いに挙手の礼をして立ち去つた。
私が空腹を訴へると、O氏はかねてそのつもりでゐたらしく、
「そこに※[#「にんべん+方」、第3水準1−14−10]膳といふ飯館《フアンカン》があります。これはつまり、宮廷風庶民料理を専門にやる店で、例の西大后の好みから特に宮中でさういふ献立を作らした、それがこの店に伝はつてゐるのです。ひとつ試してごらんなさい」
といふわけであつた。
吹きさらしの前庭に、いくつかの食卓が並んでゐて、公園のレストランとしての趣をそなへてゐる。
軽いランチではあつたが、いく品かの菜汁にそれぞれの工夫を凝らしてあることがわかつた。しかし、料理に関する限り、私は形容の言葉に窮するから、あとはどなたかよろしく。
日が傾くと、水が近いせゐでもあらうか、風がやゝ冷たくなつて来た。私は外套の襟を立てゝ歩きだした。樹立のなかにゐて、木の肌のなんと目立たぬ色をしてゐることか。幹は悉く小枝と葉のひろがりに席を譲つたのである。自然が常に煙つてゐるやうに見えるのはそのためであらう。
自動車は裏町へさしかゝつた。土地の起伏につれて、波形につゞく白壁の美しさ。曲りくねつた凸凹道も、こゝでは、往き悩むわれらが自動車のはしたなさを思はせるばかりである。
こゝは女学校と聞いても、それは昔の大官の住居にも似て、門は厳かに閉つてゐる。居酒屋風の燻けた店の前に、長い煙管を銜へた男が二人立つてゐる。千年前からそこにさうしてゐたかのやうである。
賑かな大通りへ出た。道傍で物を売る商人は支那の名物であらう。古物商を一二軒のぞいてみた。掘出し物などしようといふ肚はないが、安い土産でもあればと思つてである。これはと思ふものがまるで見当らぬ。蒙古鐙の貧弱なのが手にはひつた。
下手ものなら天橋《テンチヤウ》に限ると聞いてゐたので、O氏に案内を頼む。城門に近い、云はゞ場末の古物市場である。
このガラクタの堆積はまづ見ものである。毛皮から勝手道具まではいゝが、その先は、空壜の数々、気をつければ古新聞の束でさへおいてないとは保証できぬ。大通りを挟んで蜿蜒数丁に亙るこの光景は、巴里蚤の市の比ではない。私は疲れた。一軒で絨毯をひろげて見たら、次ぎ次ぎの店から、「いゝのがある。はひつてみろ」と呼びかけられるのには閉口した。
名刺を作りたいといふと、O氏は勧工場の様に色々な店の並んだ建物のなかへ連れて行つてくれた。名刺はまる一日かゝるといふので、すぐに使ふ分を二三枚別にその場で書いて間に合せようと思つた。が、ふと、私は、その字を店員の支那人に書いてもらふのが面白いと気がつき、そばにゐる一人に、それを頼んだ。すると、その先生はにこにこしながら早速筆を取りあげた。余程うれしかつたとみえる。子供のやうな緊張ぶりである。出来上つた字は、流石に立派であつた。
その夜は、本場の羊料理、かの豪快な炙肉の立ち食ひを試みた。ヂンギスカンとは日本人の命名ださうだが、沙漠に開かれる軍旅の夜宴は連想としてまづくない。羊料理の店は給仕の少年までみな回々教徒だといふこともはじめて聞いた。
座談会
○○○○室のB氏が人選をしてくれ、北京を発つ前の晩、ホテルへ若干名の支那人を招待した。半ば特派員としての資格ではあつたが、半ば個人として北京在住の所謂「インテリ」に会つておきたかつたからである。多少でもはつきりした思想的立場をもつてゐる人はどうかと思はれたが、集つた顔ぶれは、左の通りである。
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柯政和(東京音楽学校卒業、北京地方維持会専門委員、華北教育総会総務組組長、北平師範大学教授、四十八歳)
関瑾良(日本明治大学法科卒業、北京警察局秘書、地方維持会公安組第一科長、三十五歳)
劉家驤(北平大学卒業、北京競報社々長、亜洲文化促進会副主任、中聞通訊社々長、二十八歳)
鮑澂夫(北平大学卒業、毎月評論社々長、亜洲文化促進会常務委員、二十七歳)
胡※[#「藩」の「番」に代えて「位」、第3水準1−91−13]棕(朝陽大学法科政治系卒業、反共戦線社々長、二十六歳)
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このほかに、文学者として、周作人氏にも出席してくれるやう、私は昼間わざわざ同氏を訪ねて、その了解を得ておいたところ、丁度、周氏が家を出かけた時刻に、勅使が着かれたといふので全市に戒厳令が敷かれたため、もうちよつとのところで通行禁止に遇ひ、たうとう、あと戻りをしなければならなかつたといふことを電話で知つた。
日本人側は、私と外務省文化事業部嘱託の橋川氏との二人。話がすんで晩餐の席には、O、N両氏にも出てもらつた。
関瑾良氏が日支両国語のそれぞれ翻訳をしてくれることになつてゐ、同氏は座談会のための速記者をちやんと連れて来てゐた。
さて、予め席を設けさせた別室で、私は挨拶を述べた。
「私はこの度、雑誌文芸春秋の特派員といふ資格でこゝへやつて来ました。しかし、私は元来、ジヤーナリズムのエキスパートではありませんし、さういふ角度から、この事変の現地報告をする能力も興味もないのです。
私はたゞ日本の一作家として、戦乱の地を訪れ、自分自身のためにも若干の新しい体験を、また、私の読者のためには、なるべく冷静に今度の事変の性質、及びその結果を考へてみる材料をもたらしたいといふのが、本来の希望であり、任務なのであります。
実は、十分の暇がなく、非常に短時日の旅行なのですが、ともかく、石家荘まで行つてみました。それからつい一両日前北京へ着いたところです。北京の街は、なるほど、見たところでは、不幸な戦禍を免れてゐるやうに思はれます。しかし、民心はどうでありませうか。旅行者たる私には、一種解し難い時局の謎もあります。そこで私は、この機会に是非、御国の知識人から、出来るだけ率直な御意見を聞かしていたゞけたらどんなに参考になるだらうといふ考へを起しました。しかも、それが必ずしも不可能でない最大の理由は、今度の事変が幸ひに国民と国民との争ひでないといふこと、お互にいくぶんは違つた意味をもつてはゐませうが、ともかくも、中国人と日本人とが、事こゝに至つても、なほかつ仇敵の間柄ではないといふことを、両国の政府がはつきり声明し、国民も亦それぞれ、その点を深く認識してゐることであります。この認識は、外交の掛引からは遠いものであると私は信じたい。少くとも、さういふ信念をもつて、両国民の不幸を見つめ、その前途を憂へてゐる日本人、殊に、知識層の大部に、私は少数の方々でもいゝ真に同志と呼ばるべき御国の知識人の声を聞かせてやりたいのであります。
今日こゝにお集り下さつた方々は、その経歴、地位、また、現在の出処進退に於て、われわれが躊躇なく、味方と呼び得る方々であらうと信じますが、私自身、日本人として当然の国民的義務を負うてゐますと同様に、皆さんも、中華民国人として、言論行動の上の制約を顧慮せられなければなりますまい。これは申すまでもないことで、私がたゞ、皆さんから伺ひたいと思ふのは、専ら、文化的な部門についてであります。例へば日中両国民の提携による平和百年の事業が、果してどんな基礎の上に築かれなければならぬかといふやうな問題について、皆さんの抱負なり、予想なりを聴かせていたゞけたら、大へんうれしいと思ひます」
通訳者の迷惑も顧みず、私はひと息に喋つてしまつた。
が、どうやら趣旨だけは通じたと見え、劉氏が徐ろに口を開いた。この人は、たしか、上海に於ける左翼運動のリイダアの一人であつたとか、その後転向して反共運動に投じたのだといふ話を前もつて聞いてゐたから、私は、その雄弁のお里が知れる気がして興味を覚えた。熱情を織りまぜて理論を運ぶことになれたあの一種の型は、世界共通とでも云ひたいほどである。通訳がところどころにはひる。それでもう訳したのかといふ、納まらぬ顔附がありありと読みとれる。が、彼は続ける。
日本語に移された部分について云へば、この座談会はまつたく散漫至極なものであつた。
二三の質問を発しはしたが、私の訊きたいことはまともに答へられず、僅かに日本語達者な柯、関両氏がその親日的辞令をもつて、あたらずさはらずの意見を述べるだけである。
デリカシイについて
座談会を切り上げて、一同食卓につく。扉を距てたホールでは、ダンスがはじまつてゐる。
フランス人の給仕頭が平服のまゝで酒の注文をきゝに来る。
速記者の※[#「にんべん+(鼕−鼓)」、第3水準1−14−17]錚君は菜食主義者だといふことがわかり、私は給仕頭に、なんとかならぬかと相談する。卵はどうか。卵もいかぬ。ソースも肉汁がはひつてゐては困る。サラダならよささうだが、マイヨネーズは卵の黄味を使ふから駄目だ。やつとバタだけはよろしいとあつて、ハウレンサウのバタいためを皿へ山盛り持つて来させる。給仕頭はヴエジエタリアンといふ言葉を知らなかつたのである。
日本人と支那人ではどういふところが違ふかといふ話になる。
第一に、ちよつと見たところでは、日本人だか支那人だかわからない顔があると、誰かが云ひ出す。さう云へば、さつき、関瑾良氏がはひつて来た時、私は、日本人だとばかり思つてゐた。名刺を出されても、まだ、関《せき》なにがしと読んで、日本人側が一人ふえたものと早合点をし、そのつもりで話をしかけたくらゐである。柯氏も亦、よく日本人と間違へられるといふ。なるほど、さう云へば支那人には珍しいずんぐり型である。そして、この二人とも、不思議なことには、日本に長く住んで、日本を識ること最も詳しいのである。
柯氏曰く、
「日本人と交際をして一番われわれが苦痛に感じるのは、例へば、日本人に物を貰ふ、或は御馳走になる、すると、その後会つた時、必ずお礼を云はなければならない。先日は誠に、といふ具合に、ちやんと挨拶をしないと、あいつは怪しからんと云はれる。忘恩の徒だといふことになる。少くとも礼儀を知らん奴と思はれる。これは、支那人の習慣と違ひます。こつちは、決してそれを忘れてゐるわけでもなければ、有難く思はないわけでもない。しかし、それを口に出して云ふのは可笑しいぐらゐに思つてゐる。何時かは返礼をするつもりだし、それも、直接にそのお返しをするのではなく、たゞ厚意に酬いるに厚意をもつてする機会を待つてゐるわけです。ところが、日本人は、それでは承知しない。黙つてゐると感謝のしかたが足りないと思ふ。顔を見たら、すぐ、その相手から何を貰つたか、いつ御馳走になつたかを憶ひ出さなければならぬといふことは、これは、われわれには辛い。支那人同士は、さういふことで、恩を着せたり着せられたりしないのです」
この話は実に面白いと思つた。
ところで、私は、その後日本へ帰つて、信濃憂人といふ人の訳した「支那人の見た日本人」といふ本を読んだが、たまたま、黒海震なる一支那人の「日本留学日記抄」の中に、次のやうな記事がある。
「十二日。日本人は本当にケチ臭い人間だ。一円何十銭か出して支那料理の一遍も奢つてやるとか、或は、飲食品の一番安いところでも贈つてやると、何度も何度も仰山にお礼を云ふことは請合で、たとへそれから何年かたつた後にでも、何時何処そこでは御馳走にあづかりましてなどと、まだお礼を云ひだすものである。
私が今度鈴木さんの家に越して来た最初の日に、一箱の白砂糖を買つて鈴木さんにあげようと思つてそれを持つてあの人の前まで行くと、鈴木さんは早速跪いて、何だかよくはわからないが、くどくどとお礼の文句を述べたてられたので、私はまつたく途方に暮れて泣きだしたくなつた。かういふことはわれわれの国では決してみられないことである」
これでみると、われわれは、やるとか貰ふとかいふことに、そんなにこだはつてゐるのかと、変な気持になる。
日本語を話さない人はつい黙り勝ちになり、さもなければお互に支那語で喋り合ふといふ具合で、私はやうやく隣席の胡※[#「藩」の「番」に代えて「位」、第3水準1−91−13]棕氏から反共戦線社の事業について説明を聴いたくらゐである。同氏の云
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