ふところに従へば、この運動は東洋思想を指導精神とし、儒教的な道徳原理をかゝげて、唯物論の虚を衝かうとするものらしい。
一同を送り出してから、私は自分の部屋にはひり、今日の会合が、いろいろな食ひちがひで失敗に終つたことをひどく後悔した。
殊に、私として心甚だ愉まない理由はもう一つほかにある。どんな口実を設けたにせよ、この時局下に、公に支那人を招き、何かを喋らせようといふ浅薄な思ひつきは、われながら感心しかねるといふことを、とくに気がついてゐてどうにもできなかつたのである。
さう云へば、周作人氏が故障のために引つ返した事も、寧ろお互のために幸ひであつた。
「私は今度の事変がなんのために起つたのか、どうしてもわかりません。もちろん、普段から政治といふものはちつとも興味はないのですが、日本と支那との間に、武力で解決をつけなければならないやうな難問題があつたでせうか」
と、彼は訪ねて行つた私に向ひ、落ちついた調子で云つた。私は、日本人の立場からそれに答へる必要を敢て認めなかつた。事変前の、所謂「排日的空気」なるものを、彼は誰よりもよく知つてゐる筈である。それを知つてゐて、なほさういふことが云へるとしたら、彼にはまた彼の見方があるのであらう。
日本婦人を妻とし、大学で日本文学を講じ、革命作家魯迅を兄にもち、南京政府から俸給を貰つてゐた氏の苦衷は察するに余りがある。
「北京大学が今度長沙に移つて、もうそろそろ開講の時期なんですが……政府からも早く来いといふ通知が来てゐます。しかし私は、行かないつもりです……家族の関係がありますから……」
最後の一句を口の中で云つて、氏は静かに眼を閉ぢた。
凝つたところのない、どつしりとした好もしい住居である。いくつかの壁で仕切られた中庭が僧院のやうに閑寂な匂ひを漂はせてゐる。植木らしい植木はない。たゞ、自然に伸びたやうな楊柳が一本、ひよろひよろと立つてゐる。敷石のモザイツクが、細かな葉の影を映して、母屋の前の日溜りをくつきりと浮きあがらせる。何ひとつ、こゝをかうしたいといふやうな気を起させぬものがある。おのづからな調和とはこれを言ふのであらう。
氏は門口まで私たちを送り出し、O氏の問ひに答へて、嘗て魯迅が住んでゐた部屋といふのを指さし、N氏の希望で、私と並んでレンズに向つた。
氏にとつて、なんのための見も知らぬ日本人の訪問であらう?
時として冷酷たらんとする観察者も、また、苦《にが》さを苦さとして永く記憶する瞬間があるのである。
北京を去る
予定の日数は余すところ幾日もない。
塘沽から出る船を待つてゐるより、大連へ廻つた方がいくらか早いやうなので、弟に会ふ便宜もあり、かたがたさうすることに決めて、寝台車を予約した。
「もう一度是非来ます。これでは北京を観たとは云へますまい。なにか、非常に心を捉へるものがあるのはたしかです。好きになつたらたまらないだらうと思ふ。早く云へば、生活のダイメンシヨンといふやうなものが、人間の本性にぴつたり合つてゐるといふ感じがするのだが、僕には、それ以上の分析はできません」
私はO氏にそんなことを云つた。
事実、かういふ都会が世界に一つや二つ残つてゐてもいゝと思ふ。機械文明が取りつゝあるコースとは別に、いくらか頽廃の色は帯びながらなほこのやうにある種の秩序と豊かさとを保ちつゞける文化の形態といふものは、さうざらにはないのである。
人類の進歩のために、かういふものは役に立たぬといふ考へ方もうなづけないことはないが、伝統の墨守から生じた潤ひのない形式主義とはおのづから別な、融通無碍な一面がたしかにあることを注意しなければならぬ。
私は、たゞ、建物や、街路やそれらが組み立てる都市の外観についていふのではない。それらを含めてではあるが、北京といふ「生活体」の発散する雰囲気についていふのである。
支那全体については、また違つた見方をしなければなるまい。私は、この複雑な国家を、民族を、まだ語る資格はなささうである。
が、今まで漠然と伝へ聞いてゐた支那、時としては比類なき愛情を以て、時としては、敵意と軽蔑とをもつて語られる支那を、極めて自分には縁の遠いものと考へてゐた。ところが、政治的な意味ばかりでなく、私は、今度の旅行を契機として、支那及び支那人に対する興味が、非常な勢ひで頭をもたげて来たことを告白する。
十月二十八日午後二時、O、N、Wの三氏に送られて、私は、北京を離れた。
二等のコンパルチマンには、私のほかに、支那人の一家が乗り込んでゐた。中年の夫婦と、やゝ年をとつた身内らしい女と、赤ん坊との四人である。細君は三十そこそこであらうか、わりに智的な顔をしてゐるが、だるさうに後ろへもたれたまゝ、赤ん坊の世話を主人ともう一人の女に委せたきりで、時々、ちらちらと私の方へ好奇的な眼を向けてゐた。
主人は子供のことばかりに気をとられ、抱き上げたり、寝かせたり、菓子を与へたり、頭を撫でたりしてゐた。やがて、ズボンを脱がせ、床の上の痰壺へ小さな尻をあてがつて大便をさせはじめた。
云ふまでもなく、私の眼の前である。私は廊下へ出たくもあつたが、また、それも惜しい気がして、ぢつと網棚の一隅を睨んでゐた。
用事がすむと、痰壺は廊下へ持ち出された。細君が何やら小声でもう一人の女に囁いた。主人が帰つて来て、袋から梨を取り出し、女たちはそれを一つづつ分けた。
主人は、私の前へも二つ梨をおいて、食へとすゝめるのであるが、私は、遠慮した。
天津でこの一家族は私に丁寧な会釈をして降りた。
塘沽で日が暮れ、昌黎で夜が明けた。
葡萄と梨の産地と見え、プラツトフオームはさながら果物市場である。大きな籠に積みあげた葡萄をめいめい手に提げて帰つて来る。
秦皇島は砂丘のなかに建てられた明るい街である。海上に浮んだ無数の船は、みな英国の旗をたてゝゐるわけではない。時代の転換を暗示する風景である。
いよいよ山海関だ。万里の長城の一端があつけなくそこで切れてゐる。遠く山腹を這ひあがる姿は、奇観でないこともないが、私の眼は、もうさういふものにいつか慣れてしまつた。
それよりも、一歩満洲へ踏み込んだ瞬間、私を微笑させたのは、畑の真ん中を、黒い一頭の豚がちよこちよこと走つてゐたことである。
北支の旅行を通じて、生きてゐる豚をはじめて此処でみたといふのは、ちよつと皮肉な気がしたからである。
また夜が来た。
闇の中に、次第に浮ぶ灯の海は、金州であつた。ネオンサインもあちこちに見えて、私は思はず身ぶるひをした。
もう日本へ帰つたのも同様である。私の役目はこれですんだのであらうか?
大連で弟とその一家のものたちに会ひ、大場鎮陥落の提灯行列に賑ふ夜の街を歩いて、私は、この旅行の無意義でなかつたことをしみじみ感じた。
が、最後に門司までの船の中で、私は是非読者諸君に告げておかねばならぬ情景を目撃した。
それは、食堂で夕食の最中である。
一団の日本人が酒杯をあげて大いに戦勝気分を漂はせてゐたが、忽ち、そのうちの一人が、すぐ後ろの席にゐる白人の男女に、何やら怪しげな調子でからみつき、しまひに、その女の肩へ手をかけようとした。女は、憤然として起ち上つた。連れの男は、その女をかばふやうにして連れ去つた。件の日本紳士は、重心を失つて尻もちをついた。
「Sale type!」
私の耳へ、鋭く、この一言が飛び込んで来た。今の女が、吐きだすやうに云つたのである。
海は静かであつた。
馬関海峡はしかし秋雨に煙つて、晴天十日の大陸は、もはや私の記憶のなかに遠ざかつて行つた。
底本:「岸田國士全集23」岩波書店
1990(平成2)年12月7日発行
底本の親本:「北支物情」白水社
1938(昭和13)年5月1日発行
初出:「文芸春秋 第十五巻第十四号」
1937(昭和12)年11月1日発行
「文芸春秋 第十五巻第十六号」
1937(昭和12)年12月1日発行
「文芸春秋 第十六巻第一号」
1938(昭和13)年1月1日発行
「文芸春秋 第十六巻第二号」
1938(昭和13)年2月1日発行
「文芸春秋 第十六巻第三号(事変第六増刊)」
1938(昭和13)年2月18日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年11月12日作成
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