それでも、将校は、解せぬといふ顔つきで、今度は、私のからだを検めるやうに、見あげ見おろしするので、
「従軍記者です」
と、怪しいものでないことを信じて貰はうとすると、いきなり、彼は、
「どなたです、お名前は?」
もう安心と思つたから、
「文芸春秋社特派員で、岸田と云ひます。名刺を生憎、すつかりなくしまして……」
「あゝ、やつぱりさうですか。自分は、Cであります」
急に姿勢を正して、挙手の礼である。
Cといふ名前は、咄嗟に、ひとりの少年の顔を私の眼の前に浮びあがらせた。その少年は、眉目秀麗な、幼年校の服の似合ふ、和歌山弁の、忙がしく瞬きをする癖のある少年である。
さう云へば、この将校の、日にやけた、頬のそげた、髭の濃い顔のどこかに、その少年の面影が残つてゐるのである。
同県の後輩といふわけで、この学校の習はしに従つて、私はよく彼を連れて陸軍墓地などを散歩したものである。
「やあ、これはお見それしました。で、君は今、こゝの○○に?」
「いえ、○○部隊の○○をいたしてをります。○○○○に参りました。あなたはまた、ご苦労なお役目で……」
「どうしまして、のんびりと方々を歩いてゐるだけです」
なにから話をしていゝかわからぬ。
「では、いづれまた……」
彼は、大切な任務を果さねばならぬ。
「ご機嫌よう」
私も、慌たゞしく帽子に手をかけた。
大分待たせた揚句、Sは、
「やあ、失敬失敬……」
と云ひながら出て来た。
そこから、今度は、○○の○○へ車を走らせた。
工業学校の校舎がそれにあてられてゐた。航空兵科の若い○○に私は紹介され、明日ならば天津までの便乗差支なしといふことになり、航空地図を壁一面に貼りまはしたその部屋のなかで、私はちよつと、うますぎはせぬかと心配した。
S部隊長と別れて、私は、自分の宿舎(?)に戻つた。
もう日が暮れてゐた。
靖郷隊の面々は中庭へ大鍋をもち出して牛肉をつゝいてゐる。炭火が赤々と燃え、いくつかの眼が闇の中で光つてゐるのが、なんとなく殺伐な、それでゐてお伽噺めいたものを感じさせた。
その晩、坂本氏から支那風呂にはいらないかと勧められ、さういふものがあるのかと訊くと、街の風呂屋が今日から開業したからとのことである。なにしろ、もう四晩も汗になつたからだを洗はないのだから、たとへ、何風呂であらうと結構である。
食事をすますと、坂本氏は先にたつて私を街に連れ出した。いくつかの横町を曲り、珍しく二階建ての映画館のやうな建物の狭い階段を登りきると、むつ[#「むつ」に傍点]と鼻をつく臭ひは、内地の銭湯のそれとあまり変らない。
さう思つて部屋の中を覗くと、共同風呂には、丸裸の日本男児が殺到してゐるのである。
坂本氏は見張りをしてゐる男に何やら交渉してゐる様子であつたが、やがて、われわれは貸切りの一室をあてがはれた。
そこは休憩室と浴場とに分れてゐて、二人分の設備がしてある。休憩室には寝台が二つ並べてあり、暇と相手があれば一日ぢゆうごろごろしてゐられる仕組になつてゐる。給仕が茶を運んで来る。
浴場の方は、殆ど西洋風呂と同じ形をした浴槽が二つあつて、別に風変りなところもないが、いよ/\三助君が「流し」を取りに来る段になると、私はまつたく面喰つた。
先づ浴槽の縁へ細長い板を渡し、それへタオルを敷いて、私を仰向けに寝かせるのである。文字通り俎上の魚である。三助君は典型的支那人の相貌を備へた、六尺豊かの大男だが、これが日本のやうに裸ではなく、たゞ両袖をまくりあげたのみで、どこをどうしようといふのか。彼は無造作に、その掌で私の胸もとをきゆつきゆつと撫ではじめた。なるほど、瞬時にして垢がよれるので、私はをかしくなつた。胸から腹、股から臑へとこすりおろして行く。片脚を高く持ちあげて、尻のあたりに及ぶと、皮がひりひり痛む。しかし、到るところ、面白いくらゐくるくるとはがれおちるものが感じられる。ますます笑ひたくなるのを、こゝで笑つたら三助君がなんと思ふか、恐らく支那人にその意味は通じないであらうと気がつき、坂本氏をふり返つて、
「なかなか出ますよ」
と報告してごまかした。
表がすむと、今度は裏返しにされた。
脇の下から足の裏まで容赦なくやる。人間はくすぐつたいものだといふことを、彼等は知らぬと見える。恐らく、支那人の残虐さとはこんなところにあるのかも知れぬ。
しかし、この徹底的な「流し」のおかげで私は一生の垢を洗ひ落したやうな気分になり、日支三助比較論の意義を考へながら、一つ時、休憩室の寝台の上に寝そべつた。
「文弱」について
堀内氏の部屋で寝る用意をしながら、明日私は天津へ引つ返すといふ話をもちだすと、氏は幾分残念さうに、
「もう少し前へ出てごらんなさい」
と云つた。
「いつでも飛行機へ乗せてもらへるなら、さうしてもいゝんですが、この機会を逃すとどうなるかわからないから……」
「なあに、大丈夫ですよ」
「また出直して来ることにしませう」
そんなことこそ出来るかどうかわからない。しかし、私の言葉に嘘はなかつた。実際、戦争の一番見ごたへのある部分を見ずに帰るのはなんとしても心残りである。
堀内氏は、こんな序でもなければと云つて、内地にゐる奥さんへの手紙を私に託すべく書きはじめた。
その時、部屋の入口をのぞき込むやうにして、一人の支那人がはひつて来た。
片腕を三角巾でつるし、傷が痛むのか、泣きだしさうに顔をゆがめてゐる。
堀内氏は、その訴へるやうな言葉を聴いてゐたが、やがて、私の方に向ひ、
「この男はわしの部下ですが、負傷して此処の野戦病院にはひつてゐるんです。ところがたつた一人の支那人で、言葉も通じないし、心細いから北京へ返してくれと云ふんです」
「北京に実家でもあるんですか?」
「あることはあるんですが、北京へ帰すにしても、やはり軍の病院へ入れてやりますよ」
その支那人がまた喋り出した。堀内氏は、今度は諭すやうに長々とそれに応へた。支那人はすごすご引きさがつた。
「病院なんかへはひるより、自分で薬を買つてなほすと云ひ出すんです。銃砲の傷にはとてもよく利く薬を北京で売つてゐるからつて承知しないんですよ」
傍らから坂本氏が口を挟んだ。
「奴さんたちは一度負傷なんかすると、から意気地がなくなるんでね。もう駄目ですよ、あれぢや」
私は、横になつた。
「あなたも日本へなにかお言伝はありませんか?」
坂本氏はそれに答へて、
「わたしは、もう支那人みたいなもんですから……。名前も支那風に劉栄正と云つてるくらゐです。郷里の方とはほとんど縁を切つたやうな形でしてね」
「ぢや、家族の方は北京にでもをられるんですか?」
「えゝ、わたしの姉が○○○の家内になつてましてね、ご承知でせう、○○省の主席をしてゐた、いま行衛不明ですが、むろん、日本軍と戦つてゐるでせう。それも止むを得ずです。わたしも、今度の事変がなかつたら、その○○○の妹を貰ふことになつてゐたんですが、さうすれや、これで○○省秘書ぐらゐの地位につけたんです。さういふわけで、姉がいま北京にゐるもんですから……」
「○○○といふのはたしか日本の士官学校を出た人ですね」
「それがですよ、事変直後に、日本の新聞が姉のことを書きたてたもんだから、先生、南京に対して立場がわるくなつたらしくてね。それも、姉とわたしとで満洲へ行つたことをなにか日本のためのやうに書いたのが致命的だつたんです。困つたことをするもんですよ、新聞は……。親日家はみんな日本の新聞に親日家と書かれることをひどくおそれてゐるわけがわかるでせう」
手紙を書き終つた堀内氏は、
「ぢや、これをひとつ郵便で出して下さい。家内のゐどころがはつきりわかりませんから、宛名をかうしておきました。この家は日本でもわしの根城です」
私は、今迄見た限りは戦場のどういふ部分と云ひ得るかを考へた。戦線の後方と云つても、弾丸の音が聞えないくらゐのところでは、その言葉の感じとは隔りがあるやうに思はれた。
さつき○○を出るとき、ふと耳にはさんだその日の前線の情報にも、娘子関に向つた鯉登部隊が、地形の関係であらうか、敵の包囲を受けてなかなかの激戦中だとのことである。鯉登は事変当初からニユース面に登場した私の同期生の一人なのである。さういふ緊迫した情況も、此処にゐては、想像が眼に浮ばず、内地で号外の文句を読むのと大差はない。
堀内氏から、「あなたは流石に軍人であつただけ」などと云はれ、さうか知らと自分で不思議に思ふくらゐ、危険は常に遠くにあるやうな気がしてゐたのを、いよいよ明日は後退だときまると、また一層ほつとしたやうな、それをまた自分に咎めるやうな、複雑きはまる気持になつた。
これでみると、敵の砲火を浴びるといふことが、なるほど人間を得意にする理由がわかるやうに思ふ。
私はぐつすり眠つた。
翌朝、堀内氏の計ひで自動車が用意されてゐた。
志士諸君、あなたがたが日本を愛し、同時に支那の民衆を愛するといふ言葉を私は信じようと思ふ。事変でも終つて、諸君と再会の機を得たら、その日本について、また支那民衆について、お互に率直に語り合ひたいものである。
○○部隊○○から、○○飛行場へ送られる。同乗の一将校は、その軍服が血の臭ひのするほど殺気立つてゐた。恐らく、第一線の物音を耳に残し、これからまた、その物音のなかへ飛び込んで行くのであらう。相手の話しかけるまゝに、私が答へる声は、およそわれながら調子の合はないものであつた。
この時、私は、ふと「文弱」といふ言葉を思ひだし、この言葉が今日軍人の間でのみ使はれてゐるらしいのを面白いと思つた。
「文弱」とは正確にはどういふ意味であるか、語原的な穿鑿は私もしたことはない。
しかし、第一に、「軍人勅諭」に、軍人は文弱に流れてはいかぬと仰せられてある。
質素を旨とすべしといふ御諭示のなかにその言葉が使はれてあり、従つて、質実剛健の気風と相反する傾向を指したものであらうと思はれるが、軍人仲間、殊に陸軍の将校生徒らは、少くとも私の嘗てさうであつた時代には、この言葉をやゝ特別な意味にも用ゐてゐたやうである。
即ち、学課はよく出来るが、教練とか武術とかは不得意なものを往々にして「文弱の徒」と呼び、言語動作が活溌でなく、神経質であつたり、瞑想的であつたり、身なりを気にしたりするやうな輩にもこの言葉が当てはめられる。殊に、同じ学課でも、図画や作文を好み、外国語に熱中し、仮に体操の時間を頭痛がすると称してサボリ、許可されてゐない書物など読み耽るものがあつたら、これこそ「文弱」の尤なるものであらう。
それからまた、女の話などする奴も、文弱の類ひに入れられる。抑も異性との恋愛なるものは、文弱から生れるものだといふ信念をもつてゐるのである。
彼等の思想、言論のはしばしに於ても、この「文弱」といふ尺度はしばしば適用される。第一に、平和主義、人道主義、自由主義、等々の流れを汲んだものはすべてこの範疇に入れるべきであらう。
さて、私が思ふに、これを一般的に論じつめれば、武断的なる精神の忌み嫌ふところは、かの「文化的と称する柔弱さ」にあるのである。
その一例として、幼年学校の教育綱領とでも云ふべきもの、中に、作文教授の方針を規定して、「小説的なるべからず」といふ一項目が掲げられてゐたことを記憶する。
この「小説的」なる言葉の意味は所謂「軟文学」の概念から割出されたものに相違なく、勿論文体については言文一致を禁じ、心理描写や自己分析めいた記述を排し、現実暴露的な物の見方を許さぬといふことは事実であつた。
昔と今とは幾分違ふであらうとは思ふけれど、早く云へば「近代文学」の一面が日本軍人の気質と相容れないものであると同時に、「文化」なるものゝ如何なる意味に於けるデカダンスも、真の武弁には鼻もちのならぬ現象なのだ。従つて、さういふデカダンな傾向をはらむ一切の人間的欲求に同情をもたぬ決意が、当然、今日の重々しい非常時局を形づくつてゐる原因と見て差支ない。
社
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