。
「責任感の強い男だからなあ」
イガ栗頭の若い隊員が感慨をこめて呟いた。
××は、隊長代理として第一線に出てゐた、まだ三十前の青年ださうである。堀内氏は、この左翼転向者たる青年を最も愛し、信じてゐたらしい。
「ようし、わしがきつと仇を討つてやる」
かういふ時には、かういふ言葉が、極く自然に出るものらしい。
「隊長には敵の弾丸がまともに中らないから不思議だ」
隊員の一人がまた独言のやうに云つた。
「うむ、なにしろ、唇と喉笛とをかすつただけだからなあ。眼だつて大したことはないし……」
彼は、さう云つて、唇と咽喉とに、皮膚をすれすれに指で弾丸の通る形をしてみせた。
「わしを是非前線へ出して下さい。かうしちやをられんです」
さつきの若い隊員が席を蹴つて起つた。
「支那服を持つとるか?」
「いや、こゝには持つとらんですが……」
「僕が一着、古いのでよけれや持つてるよ」
従軍僧A氏が、この時、一隅から声をかけた。
S部隊長との一つ時
「○○北方高地一帯の敵陣地には動揺の色が見えました。○○部隊の左翼は○○河の渡河を終り、対岸の敵を急追中であります。敵の遺棄死体は四百乃至五百、なほ友軍の損害も少くないと思ひますが、不明であります。なほ、○○より○○に通ずる道路上に約一千の敵密集部隊を発見し、直ちに数回の爆撃を加へ、これを壊乱せしめました。その際、翼と操縦桿に四発の銃弾を受けましたが、人員に損傷なし。
帰途○○方面を迂廻し、友軍右翼前面の敵情を偵察しました。山岳地帯は非常に視界が狭く、低空飛行によつても、陣地の配備を明瞭に知ることができません。殆ど側面より射撃を受けつゝ○○の上空に達した時、○○部隊の一部らしき友軍の散開前進するのを見ました」
S部隊長の天幕の中である。
Sは卓子の上の地図をにらんでゐる。機上から飛び降りたばかりの若い飛行将校は、直立不動の姿勢で報告をしてゐる。
私は、その二人の表情を代る代る読みくらべて、生々しい偵察の記録を胸にたゝまうと努力した。
「やあ、ご苦労。おい、○○司令部を呼び出して……。××中尉、君、電話口へ出ろ」
Sは、ほつとしたやうに、ボタンを外した胸をそらし、年にしては早すぎる半白の頭へ片手をのせた。
「出てゐる飛行機が還つて来るまでは、気が揉めるつちやないよ。しかし、貴様、よくこんなところまで来たなあ。なるほど話を聞けやわかるが、小説家なんて、そんなことまでするのかい」
「まあ、酔狂さ。しかし、戦争つていふものは現地でないとわからんね」
「うん、それやわからん。おれは、かうしてゐてもまだわからんやうな気がするよ」
「どうして? そんなことがあるものか」
「いや、まだまだ……」
と、彼は、意味深い笑ひ方をした。
それから、Sは私を傍らの副官に紹介し、同期生の噂に移り、支那の飛行機の問題を論じ、海軍の飛行技術と陸軍のそれとの本質的な区別を説き、
「さあ、昼だ。飯を食ひに行かう」
飯を何処へ食ひに行くのかと訊いたら、すぐそばの村落に、夜はちやんと舎営してゐるのだとわかつた。
護衛兵同乗の隊長用自動車で、部隊本部へ。そこはなるほど、民家を利用した立派な、立派とは云へないまでも小ざつぱりした宿舎である。
本部将校のための食堂もできてゐる。
当番の兵士は頗る美少年で、恭しく盆を捧げてお給仕をしてくれる。一汁一菜の野戦献立も、いくぶんは特別の吟味が施され、焚きたての麦飯は相変らずうまい。
「当分米が来ない形勢だつたもんだから、二三日前から節約を申渡したんだ。いや、腹いつぱい食ふなといふわけぢやない。代用食と半々にする手筈をきめてゐたところが、やつと今日あとが着いたんだ。さあ、遠慮なく食つてくれ」
「酒はどうだ? 不自由はしないか?」
「う? うむ……」
と、言葉を濁し、Sは当番を顧みて、ウヰスキイがあれば出せと命じた。いや、あるにきまつてゐる。私が欲しいといふのではないのである。
「留守宅は東京だつたね。何かことづけはないか?」
私が云ふと、彼は血色のいゝ顔を更に綻ばせ、
「いや、別にない、序があつたら、元気にやつてるつて伝へてくれ。こんな贅沢な部屋に住んでることも話してくれ。こつちへ来ないか。おれの居間だ」
戦場と思へば、これでも贅沢といふ意味であらう。形ばかりの家具、寒々とした壁の下に白い毛布をひろげたベツトがある。
二三年前、同乗中の飛行機が墜ちて、彼は大怪我をし、再起不能とまで伝へられたことがある。その後の健康について、私は訊ねた。
彼はいくどもうなづくやうに首をふり、
「もういゝ」
とあつさり答へた。
「自分で偵察に出かけることもあるんだらう」
「あるよ」
「よく下が見えるかい?」
「見えることもあり、見えんこともある」
「それや、高度次第だらうが、一度おれも乗せてみてくれないかなあ。日にちがなくつて前線まで出られないんだ。こゝで引つ返すのは少しいまいましいから」
「うむ……」
と、考へて、
「まあ、そいつはよせ、見えやせんよ」
「しかし、新聞記者は爆撃機にさへ乗せてもらつてるぜ」
「貴様はよせ」
なんと云つても、彼は相手にしないので、私は、妙に拍子抜けがして、そのまゝ口をつぐんだ。
彼もどうやら気まづげであつた。
この瞬間の印象を今想ひ出して、私は、彼の胸中を読む術のなかつたことを憾みとする。
話は飛んで私が東京へ帰つた翌日であつたが、何気なく新聞の記事に眼を通すと、丁度私がSを訪れた日の直前、彼の部隊の○○機一機が、偵察飛行中、行方不明になつたことが発表されてゐるのである。
Sは、さうしてみると、私が訪れた日は、このことで頭がいつぱいであつた筈だ。しかも、それをまだ私にも語る自由をもつてゐなかつたのだと思ふと、彼が私の申出を拒んだ理由も、いろいろ複雑な気持からであつたことがわかる。
「出てゐる飛行機が還つて来るまで、気が揉めるつちやないよ」
さもあらうと、たゞ聞き流した私の耳は、彼のストイツクな沈黙に恥ぢねばならぬ。
舎営風景
Sはまだ此処へ着いたばかりで、部下の宿舎をゆつくり巡視する暇がなかつたらしく、私にも見て行かぬかといふので、二人は車を待たして一緒に本部を出た。
村落は全体で人家が五十戸もあらうか、わりにちやんとした門構へでそのくせ中へはひると、それほどでもないといふやうな家が多く、このへんもやはり住民の大部分は何処かへ姿を消してゐた。
宿舎はすべて、住民のゐない家に限られてゐるが、なかに一軒、門の扉へ「日本軍入ルベカラズ」といふ貼紙がしてあるのがある。
「これはどういふんだい、誰が貼つたんだらう?」
私は不審に思つて訊ねた。
「ふゝん、こつちで粘つたんだらう」
「こつちとは? 日本軍でかい?」
「さうさ」
「まるで、向うがやつたやうだね。すると、なんのためかねえ?」
「いや、夜になると部落の女どもを集めて番をしてやるんだよ。親切なもんだらう?」
「ほう、なるほど、それやよく気がついた。用心をするに越したことはないね」
二人は笑つた。
この時、私は端なくも、欧洲大戦の時、フランスの村落へ侵入したドイツ軍の兵士が、村の若い娘たちと意気投合してしまつたといふ話を思ひ出した。東洋人の間では、さういふことは殆ど想像ができないのではないか。これはなかなか面白い問題である。
少し行くと炊事場である。
皮を剥いた豚が大きな調理台の上に寝てゐた。一方では、白菜を洗つてゐるものがある。
隊長は井戸をのぞき込んで、傍らの兵士に訊ねた。
「水はいゝか?」
「はあ、まづいゝ方であります」
「どら、汲んでみろ」
釣瓶代りのバケツに汲みあげられた水は、白く濁つてゐた。
「これでまづいゝ方かな」
Sは首をかしげた。
「ほつとくとだんだん澄んで来るんであります」
「それやさうだらうが、あんまり感心せんな」
私も感心しない。が、兵士は水の責任を自分が負ふ覚悟で黙つてゐた。
井戸の縁は地面とすれすれで、井戸側といふものがないらしく、外へ溜つた水が中へ逆流しさうである。
「こいつはなんとかならんか。汚いぞ」
Sの注意は至極尤もだが、これは、炊事係の下士も気がついてゐるとみえ、
「はあ、それに、いま、はめるものを作らせてをります」
敬礼! 一斉に靴の踵を揃へる音がした。
私は帽子を脱いだものかどうか?
それから、警備の状態をひと通り視廻り、Sは、自動車を招き寄せた。
「なにしろ、明日出発命令が下るかも知れんのだからな。落ちついちやゐられないよ」
「うつかり洗濯もできないね」
と、私は暢気なことを云つた。やがて、飛行場の天幕に帰ると、そこへ、新しく交代した警備隊の隊長が打合せに来た。歩哨の地位を今迄と少し変へることなど相談をした後、
「それから、村落内に怪しい支那人が一名潜入してゐるらしいといふ報告を受けました。只今、巡察を二組派遣しておきましたが……」
「人間がゐるところは大丈夫だよ。それより、飛行機の方だな。まあ、よろしく頼みます」
あとで、私は、部落民の日本軍に対する感情はどうかと訊ねた。
「うん、場所によるね。大体穏かだが、なかには油断のならん奴がゐるよ」
「ある砲兵隊が舎営してゐる部落で、敗残兵だか匪賊だかの襲撃を受けたところがあるつてね。なんでも部落民のいくたりかゞ焚火をして合図をしたんだつていふぢやないか」
私は何処かで聞いた話を、逆に持ち出してみた。
「ふむ」
とSは別に気にもとめないらしい。
プロペラの唸りが、あちこちで聞える。機械の点検をしてゐるのであらう。ずらりと並んだ○○機の、やゝ仰向き加減に翼を張つて、隊長の天幕をぢつと睨み、命令一下を待つてゐるやうな姿勢が、息づまるほどの物々しさである。これ以上邪魔をすまいと思つたが、さて、行先はと考へる。北京へ直行するにしても、汽車では四五日を見ておかねばならぬ。若しや便宜を計つてもらへたらと、私は、Sにかう云つた。
「これから北京へ行かうと思ふんだが、飛行機の序はないかね?」
「序? さあ、おれんとこにはないが、待てよ……天津までぢやいかんか?」
「いかんことはない。それでもいゝ」
「○○司令部の連絡機に席が空いてないか、訊いてみてやらう」
丁度、S自身、○○部へ出掛ける序があるとみえ、私も彼の車に同乗することができた。
支那風呂
南方邯鄲に通ずる道路は、交通のはげしいためか、ひどく傷んでゐる。
日中はまだ相当に暑い。強行軍の徒歩部隊が、砂塵のなかをぐんぐん押して行く姿が目につく。胸の釦を外し、手拭を口にくはへ、戦帽の後ろに汗がにじんでゐる。根かぎり歩くのだといふ決意が、一人一人の顔色にうかがはれる。隊長は黙々と軍刀をつき、時々、隊列の乱れを気にしてゐる。ひと足おくれかけた兵士は、背嚢を両臂で支へ、前のめりに追ひ附かうとあせる。飯盒が音を立てるのは中身の乏しい証拠である。今夜は、何処で泊るのか。そこには何が待つてゐるか。せめて喉をうるほすに足る清水でも湧いてゐてくれ。
「おい、こら、みろ。徒歩部隊は、かういふ時は辛いぞ。お前らは、まるで大尽だ」
Sは、運転手台の兵士らに声をかけた。
○○に着く。
Sについて上つて行くと、彼は、
「ちよつと待つてくれ」
と云つたまゝ、一室の中へ姿を消した。私は、戸口で、ぼんやり待つてゐた。この部屋のなかでは、重要な作戦が籌らされてゐるのだなと思ひながら、私は、廊下を往つたり来たりし、煙草を一本喫ひ、ノートを取出して、ふと浮んだことを記し、などしてゐると不意に後ろで靴の音がした。
○○の一将校が、銃に着剣をした○○兵を従へて、のつそり歩いて来た。私は、手摺を背にして道をあけると、その将校は、私の前に立ち止つて、じろじろ私の顔を見、「お前は何者だ」と云はんばかりの表情で私の返答を待つ身構へをした。
そこで、私は、先づ、自分の風体といまゐる場所を考へ、なるほど不審に思はれてもしかたがないと気づき、
「S部隊長を待つてゐるところです」
と、甚だ要領を得ぬ弁解をした。
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