、一種特別な香りと味とをもつてゐる。
汽車は何時の間にか動きだし、何時の間にか止つてゐるといふ風である。人々は、だんだん退屈しはじめた。身動きもならぬ。背嚢の間に挟つて、居睡りをはじめるものもある。話声も聞えない。
私は、遠く西の方に聳える山の連りをさつきから飽かず眺めてゐる。麓までは、近いところで二十キロもあらうか。あの山間の部落々々には、所謂敗残兵がまだうろうろしてゐるのだと聞いてゐたからである。
汽車は清風店といふ駅に停つたまゝ容易に動きだしさうにない。もう昼近くである。飯盒をおろし、携帯口糧の袋をあけ、それぞれ昼飯にとりかゝるものもある。
一時間、二時間、と過ぎた。なにを待つてゐるのだらう?
「今夜は新楽かな、定県かな」
堀内氏はひとり言のやうに呟いた。
「弁当にしませうか?」
隊員の一人、これは日本人の坂本氏が隊長の方へ声をかけた。
ところが、どういふ間違ひか、弁当は隊員四人に対して、二人分しか用意がないとわかつた。その二人分は、支那の隊員二人が食ふことになり、堀内、坂本両氏は、土産の餅菓子を取り出した。
さういふ私も、むろん弁当なんか持つて来てゐない。横着のやうだが、堀内氏にくつついてゐればどうにかなると思つてゐたからだ。
遂に私も空腹を覚えだした。餅菓子ひとつでは後が続くまいと思つたから、兵隊の真似をして、生薯と大根を齧つた。実際、これは真似事である。一食ぐらゐぬかしたところで平気なことはわかつてゐる。が、この調子でまたどんなところへ何時間も止められないとは限らないのである。
私は、線路から離れて、あちこちと歩いてみた。人家は何処にあるのだらう? 例の蒲鉾形の墓のほかに、回々教の石塔もところどころに建つてゐる。近くで銃声が一発、続いてまた一発、聞えた。妙にのんびりとした気分である。兵隊はよく誤つて引金を引くことがある。これを暴発と云ふが、多分それであらうと思つてゐると、畑のなかを、瘠せた小犬が一目散に走つてゐるのが目につく。
汽車はまだ出さうもない。
新楽まで
守備兵の一人が、切りに大声で車の上へ話しかけてゐる。何気なくその話に耳を傾けると、
「驚いたよ、まつたくそん時は……。前を見ると、土手の上で白いものがさつと動いた。二十米もないんだぜ。すると、道の両側からパンパンパンと、一斉に撃ちだした。五十名以上ゐたな。こつちは、自動車の上だぜ。おまけに、銃を持つてるのはおれともう一人特務兵がゐるきりだ。運転手の××上等兵は、しかし、えらかつたよ。落ちついてやがるのさ。おれたちが車から飛び出して、とにかく応戦してゐるひまに、ゆつくりハンドルを廻しはじめたんだ。弾薬盒の弾丸を二人で道の上へぶちまけて、そいつを代る代るこめたんだが、それを拾ふ手のそばへ、敵の弾丸がピユンピユン跳ねるんだ。不思議と当らねえもんだなあ。こつちだつて、無我夢中さ。眼の前にゐる敵が、どうしても撃てねえんだ。運転台で、『よしツ』つていふ声がしたから、『さ乗れツ』つてわけで、飛び乗つた。そん時、××上等兵が、『やられたツ』ていふから、『どこを?』つて訊くと、片手で肩を押へてるんだ。後ろからは、まだ雨のやうに弾丸が飛んで来る。タイヤをやられたと見えて、車はガタンガタンさ。もう駄目だと思つたよ。しかし、××上等兵はえらかつたなあ。たうとう頑張つて、帰つて来た。たつた今、病院へ連れてつたんだが、軍医殿は急所を外れてるから大丈夫だつて云つたよ。うん、すぐそこさ。あの山の麓の曲陽つてところだ。始めから危ねえと思つて、隊長にもさう云つたんだ。あゝ、さうさ、豚を徴発に行つたのさ。なにしろ、敵前二十米で、あの大きなトラツクを廻れ右させるんだからな。あわてたらおしまひさ。もう少し前へ出てたら、道が狭くなつてるから、どうすることもできなかつたんだ……。最初、前の土手の上で……」
話がまた始めへ戻りさうなので、私はそこを離れた。
枯枝を集めて火を焚き、薯を焼いてゐる兵士がゐる。
飛行機が一台はるか高いところを飛んでゐる。
敵か味方かといふ穿鑿をするものもない。
停車五時間半の後に、合図もなく汽車は動き出した。
定県を過ぎると、日が傾き、線路間近に、支那兵の屍体が転がつてゐるのが眼につく。
様々な形をしてゐる。俯伏せになり、片腕を額にあてゝゐるのもある。仰向けに、大の字になつてゐるのもある。なかには、今にも起き上らうとして膝をついてゐるのもある。さうかと思ふと、抜殻のやうに軍服だけがぺつしやりと地面に吸ひついてゐるのもある。土のなかから手袋をはめた片手がによつきり出てゐるのをみた時、私の傍らにゐた後備兵は、ペツと唾を吐いた。
が、かういふ光景はやがて、夕闇のなかに没し去つた。
と、汽車は、停車場もなにもないところへ停つた。
何処かで銃声がするといふものがある。
私は耳を澄ました。さう云へばあの音か知ら? 鉄道に沿つた道路を、逆の方向へ三台のトラツクが走つて行く。武装した兵隊を満載してゐる。
「敗残兵が出たな」
誰かが囁いた。
「もう、新楽はぢきでせう?」
私は堀内氏に訊ねた。
「そこが新楽ですよ」
灯の見えない部落には、しかし、何かが動いてゐる。○○、○○○の集団が、そここゝに宿営してゐることがわかつた。
「今日は、もう前へは出られませんね」
新楽の南端に沙河といふ河があつて、その鉄橋がまだ修復できないのである。河向ふから汽車が出るには出るのだが、その時間はわからない。
鉄橋こそいゝ迷惑で、敵と味方が、代る代る毀す。それをまた、代り番こに直すのだが、鉄道関係の人の話では、支那軍の破壊方法はなかなか専門的で、手が込んでゐるさうだ。だから、修繕にも骨が折れるのである。
新楽の駅に着くと、堀内氏は、荷物を一旦構内の片隅に纏めておろし、部下の一人を見張に残して、早速宿舎の探険に出掛けて行つた。私もむろんそれに従つた。
支那民家
停車場司令部はごつた返してゐる。なにしろ、戦場の旅行者はひと先づ此処で「自分の行くべきところ」をたしかめなければならぬ。宿と食糧にありつくためには、○○へ出頭すべきだが、その在りかが第一わからない。明日の汽車の時間も知りたい。副官は声をからしてゐる。
われわれは、そこへいくと、堀内氏といふ大船に乗つてゐるから、どう間違つても大したことはあるまい。
「たつた今、定県の駅が襲撃された」
といふ言葉を、私は、辛うじて耳にはさんだ。
堀内氏は、すたすた、裏道伝ひに新楽の城門を目指して歩いて行くのである。
「詳しいもんですね」
私は思はず感嘆の叫びをあげた。
「いやあ、なんべんも来てますから……」
城門をはひると、すぐに「新楽県治安維持会」といふ標札の出てゐる建物があつた。城内氏は、そのなかの一室をのぞき込んだ。五六人の支那人が蝋燭を立てた卓子を囲んでゐたが、堀内氏の姿を見ると、懐しさうに起ち上つて、口々に何やら挨拶を述べてゐる。
やがてその一人が先に立つて歩き出した。街はひつそりとして、家といふ家は固く門を鎖してゐる。
月が出たのであらう。空はほんのりと明るく、人影のない街は、却つて無気味であつた。
と、いきなり、街角をこつちへ駈けて来る若い女の姿が眼に映つた。日本の女である。披女は、われわれの方へ一瞥を投げ、そのまゝとある建物のなかへ消えて行つた。
堀内氏は、
「おい、おい、ねえさん」と、呼んだ。
女は、襟をかき合せるやうにして、再び門口に現はれた。
「なにか、御馳走はできないかい?」
「わしども、たつたいま来たばかりぢやけん……」
「来たばかりだつていゝぢやないか」
「なんにも支度がでけとらんですたい」
「ほう、支度がいるか。そいぢや、また……」
「どうぞ……」
われわれは、一軒の空家とおぼしい家の門を潜つた。なかなか立派な家である。案内の支那人はもうゐない。堀内氏は、奥まつた建物の扉をこつこつと叩いた。
意外にも、その扉が中から開いて、五十がらみの割に品のいゝ男が顔を突き出した。堀内氏が言葉をかけると、その男は、大きくうなづきながら、屋敷の中の一棟を指さした。中庭を横ぎらうとすると、その庭の真ん中に大きな卓子があり、四五人の男が暗闇のなかで食事をしてゐるところである。
彼等は慌てゝ箸を投げ出した。一人の老人が私に椅子を薦める。他の若者は、急いで茶碗を洗ひ茶を汲んで出した。眼が馴れると、あたりの建物の様子がはつきりして来た。
「これはどういふ家ですか?」
私の問ひに堀内氏は、
「穀物問屋です。この町では大尽ですよ」
「家族はみんなゐるんでせうか?」
「男だけは残つてゐるらしいですな。さあ、晩飯の支度にかゝりませう」
隊員の支那人、賈陽山《ヂヤヤンサン》君が肉と野菜の買出しにやられた。もう一人の王振遠《ワンチエンユアヌ》君は、用がないと見えて、私のまはりをうろうろしてゐる。
穀物問屋でも米がないとわかつたので、例の饅頭の皮みたいなものをこしらへることになつた。堀内氏が家の主人に紙幣を一枚握らせると忽ちサーヴイス振りが違つて来た。竈の火は赤々と燃え上り、油を煎る音が空腹を刺戟した。
間もなく、賈君は豚肉と白菜と葱をしこたま仕入れて来た。王君が庖丁でそれを切る。味噌はあるが砂糖がないといふので、坂本氏がドロツプをひとつかみ鍋の中へぶちあけた。
その夜、私は堀内、坂本の両氏と枕を並べて寝た。この一行は夜具の用意をして来てゐる。おかげで、私も寒い思ひをせずにすんだ。
「あなた方が連れてをられる支那人は、どういふ素性の人ですか?」
私は、物好きに、かう訊ねてみた。
堀内氏は、笑ひながら、
「あの年取つた方の王といふのは、以前張学良の部下で、陸軍大尉です。張の失脚後、職に離れてゐたのを、わしが拾ひ上げたのです。もう一人の若い方、賈といふのは、あれは、二十九軍の兵隊だつたのを、途中で逃げ出して、わしのところへ頼つて来たのです。あれの兄といふのをわしが北京で世話してゐたものだから……」
「へえ、すると、両方とも玄人ですね」
「なかなか役に立ちますよ。賈なんか、今でも敵の歩哨線を公然と通り抜けられるんですからね」
「なるほど、暗号も知つてるでせうからね」
「いま、第一線でわしの部下が働いてますがみんなよくやつてくれとるですよ。早う行つてやらにや、わしも心配でなあ」
「あなたの隊は、日本人はあなた方二人きりですか」
「いや、ほかに三四名ゐます。班長はやはり日本人でないといかんです」
堀内氏は、そこで、図嚢から眼薬を出して眼にさした。迫撃砲の破片でやられた傷がまだ完全になほつてゐないのださうである。
仮橋を渡る
朝早く眼がさめた。
私は中庭に出て、火事場のやうな光景を見た。家財道具を悉く運んだ後の、ガラクタと塵芥の堆積がそれである。
古手紙が散乱してゐる。帳簿や、古い小説本、子供の絵本、法律書、殊に、裁判所の判例の写しが沢山ある。この家の息子の一人がその方面の学校へでも行つてゐるのであらう。裏庭へ出てみると、バスケツトボールの設備がしてある。純支那風のこの建物にそんな生活がどうして想像できよう。
王君が金盥に湯を汲んで持つて来てくれる。なるほど大尉の軍服を着せたらさぞ似合ふだらうと思はれる立派な体格である。大陸には珍しい口髭も生やしてゐる。
昨夜の食事の残りで朝飯をすます。
荷物を運ぶための苦力が五六人召集される。
朝霧のなかを、一行は城壁に沿うて、沙河の河畔へ!
鉄橋のなかほどに機関車が一台立往生をしてゐる。河幅は千米もあらうか。洲の多い川である。鉄橋と平行に仮橋が架つてゐる。
これが堀内氏の説明によると、二千人の苦力を集めて二昼夜のうちに完成した応急工事である。砲車も通ればトラツクも通る。われわれはその間を縫ふやうにして、やつと対岸へ着いた。
乗馬将校の叫人が、演習のやうに号令をかけてゐた。堀内氏は、この橋に余程の執着があるらしく、
「まあ見て下さい。これが素人の架けた橋ですぜ。わしはひと晩、水の中に漬かつ
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