とにかく、保定の街を見物しておかう。
 こつちの飛行場には、○○機が○台、出動の準備中であつた。
 並んだ天幕の一つから、上着を脱いではゐるが将校用のバンドを締めた慓悍そのものゝやうな青年が、両手を頭の上へ組んでのつそり姿を現はした。
 私は地上勤務の兵士たちに、此処は何部隊かと訊ねてゐたところであつた。兵士の一人は、
「今こゝにゐるのは○○部隊の○○隊であります。あ、あそこへやつて来られるのが、ついこの間敵の重爆を撃墜された沢田中尉殿であります」
 どれどれ! 私は、この殊勲の勇士のそばへ近づいて、こゝで初めて従軍記者を名乗つたのである。
「まあ、休んで下さい」
 と、彼は私を天幕に案内し、晴れ渡つた真昼の空の下で、私の望むまゝに一席の武勇談をして聞かせてくれた。
「丁度○○飛行を終つて着陸しようとしてゐたところでした。地上で敵機現るといふ信号をしてゐます。急いで上げ舵を取りました。何処にゐるかわからない。そのうちに高射砲の炸裂する白煙が見えました。あ、あの方角だなと思つて、その中へ飛び込んで行つたら……」
 といふ具合に、情況は手にとるやうだ。
「なにしろ、初めて敵にぶつかるんですから、うつかりした真似はできません。奴、どうするかと思つて、しばらく出方をみてゐると、大した腕前ぢやないことがわかりました。そんならと云ふんで、こつちは、いきなり下へもぐつて……食ひついて……」
 言葉どほりにこの話を伝へることができないのは残念だ。
 中尉は、専門的俗語を連発して、壮絶な空中一騎打ちの瞬間を描いてみせた。
「後方射手のからだがぐたりと前へのめつたやうでした。もう占めたと思ひました。それからは、機銃を実直ぐに据ゑたまゝ、後ろ十米ぐらゐの距離を保つて追つかけたんです。そのうちに、操縦者がハンドルを放して起ち上らうとしました。恐らく飛び降りるつもりだつたんでせう。しかし、……」
 と、中尉は、その姿を想ひ出すやうに、瞳を据ゑて、今度は急に、冷然と、
「もう駄目でした。タンクが火を吹きだしたと一緒に、機体は墜落です」
「操縦者は支那人でしたか?」
「えゝ、まだ若い将校のやうでした。いや、場所が丁度この上でしたから、部隊の士気が大いにあがりました。地上勤務のものは退屈してますからね。それだけがよかつたです」
 そこに居並ぶ部下の将士たちも、この若い隊長の想ひ出話に均しく呼吸《いき》をはずませてゐるやうに見えた。
 それから、昼食のご馳走になり、地上勤務部隊の隠れた苦心談を聴きながら、以前支那兵営であつた宿舎を一巡した。それは殆ど普通民家を大きくしたやうな建物で、例の土をかためて壁と屋根とを作り、若干の部分に石灰を塗つて白く外観を装つてゐるだけである。
 裏庭の一隅にアンペラで囲つた急造便所ができてゐる。「下痢患者用」と書かれた貼札が眼を惹き、いま食卓を共にした若い見習医官大谷博士の言葉を思ひ出した。腹をこはすとなかなか恢復が困難らしい。
 午後、序があるといふので、保定まで自動車へ乗せて行つてもらふことになつた。途々いくたりかの農夫に出会つた。パアル・バツクの「大地」に出て来る農夫たちを眼のあたり見る思ひである。保定の城門に近い小川のほとりで、暢気さうに投網をしてゐる老人もあつた。さうかと思ふと、そのすぐそばの柳の木蔭に、馬が一頭、白骨をさらしてゐるのである。

     保定城

 この日は、日本軍の保定入城から丁度一週間目である。そして、第一線は、とくに石家荘を抜き、もはや邯鄲を落した時分である。しかし、つい二日ほど前、敵の飛行機が城外へ飛んで来て爆弾を落したといふ話を、その晩、人々は話し合つてゐた。
 私は西門で自動車から降されると、衛兵所で○○○○室の所在を尋ねた。
 生憎、さう大きくはないが手提鞄をひとつ持つて来てゐるので、こゝで降されてはちよつと困るのである。それでも私は教へられた方向へとぼとぼと歩きだした。道は白く乾いてゐて恐ろしく埃つぽい。城門に近いあたりは、場末らしい低く不揃ひな家が軒をつらね、往来では物売りが店をひろげ、そここゝで子供も遊んでゐる。
 突然、後から足ばやに追ひついて来るものがある。お巡りさんであつた。いきなり私の提げてゐる鞄を取り上げようとする。私は放さない。なにやら、声高に云ふ。わからないが、察するところ、道案内をしてくれるものらしい。おまけに、鞄をもつてやらうといふのだから、これは、すぐには私に通じない筈である。
 保定警察局といふ看板の出てゐる比較的立派な建物の前に来た。丁度そこに憲兵隊の自動車が待つてゐたので、運転手台にゐる兵隊さんに、私の会ひたいと思つてゐる人の名前を云ふと、やはりこの建物のなかで訊いてみろと教へられ、やつと安心した。
 私は、刺を通じて署長に面会を求めた。署長室へはひるや否や、驚いたことには、支那服の袖に黄ろい腕章をつけた一人の小柄なお婆さんが、つかつかと私のそばへ来て、日本語で、
「さあ、どうぞ……。これが局長さんです」
 と、奥の卓子の向ふでいま起ち上つた詰襟黒服の、なるほどお役人らしい一人を紹介してくれた。
 私は、そのにこやかな、如何にも遠来の客を迎へるといふやうな調子の挨拶をぼんやり聴いてゐた。
 お婆さんは、通訳して曰く、
「よくいらしつて下さいました。ご用はなんでせうか――こぎやん[#「こぎやん」に傍点]云ひよるです[#「よるです」に傍点]たい」
 そこで、私は、これに応へる代りに「はゝあ、これが有名なお婆さんだな」と思ひ、つくづくその姿、かたちを見直した。事変後保定にたゞ一人踏み止つてゐた日本婦人として、当時新聞が大々的に報道したのはこのお婆さんなのである。
「では、局長さんにかう云つて下さい。――私は保定の町が現在どんな風になつてゐるかを見に来ました。日本の国民は、何れも戦の過ぎ去つた後の町や村に、早く平和が訪れることを望んでゐますから……」
 お婆さんの通訳ぶりはどうであらうか? 恐らく、言葉通りの意味を伝へてもらふわけには行くまい。しかし、局長さんは、熱心に耳を傾け、いちいち大きくうなづいてみせ、さて、私の方に向ひ、
「謝々《シエーシエー》」
 と言つたやうに思つた。
 そこへ、表から、忙がしさうにはひつて来た一日本人があつた。年は三十をいくつか過ぎてゐるであらうと思はれるがつしりした青年である。
 お婆さんは私に耳うちをした。
「あれが、井河先生ですたい」
 私の会はねばならぬ人である。
 役目はこの警察局の主事といふ、つまり顧問格なのであらうが、実際の権能は寧ろ今のところ局長の上にありと私には察しられた。
 かういふ都市の治安維持、進んでは行政、経済その他一般の平和工作が、現下の情勢では、まだ軍事的機関の一翼に連つて進められることは勿論であるから、あまり立ち入つたことは書けぬと思ふ。が、単なる好奇心からでなく、国民は、前線躍進の有様と同時に、後方の落ちつきを「手に取るやうに」知り得る術はないかと念じてゐるのである。
 私は、この保定を一例として、可能な範囲に於ける見聞を綴つてみよう。
 井河氏の好意で、その夜は、警察局官舎といふか、同氏の私室といふか、とにかく局構内の奥まつた一室を特に私のために明けてもらつた。
 まだ日のあるうちにといふので、井河氏の巡視時刻を利用し、市中をあちこち見せて貰ふことができた。
 殆ど影をひそめてゐた住民の三分の一は自分たちの古巣に戻つて来てゐるといふ状態で、街々には日の丸の旗を手にした住民の三々伍々が、道ばたに佇み、門口に並んでわれわれの通るのを目礼を以て迎へてゐる――と、私には信じられた。なかには、旗を両手で捧げるやうに頭の上へ差出し、叩頭礼拝する姿も見うけられた。或は、そのなかで、盆にのせた巻煙草を恭々しくわれわれの前に差出さうとするものもあつた。懇ろな饗応であらうが、敢てこれを受けるものがあるであらうか? 婦人は老婆を除いては、まだ絶えて街上に姿を見せないと云つていゝ。
 一寺院の塔に登つてみた。案内の少年僧はわれわれの手を曳かんばかりにして、薄暗い埃にまみれた階段を先に立つて駈け上つた。塔の屋根は砲弾に見舞はれ、半壊のまゝ残つてゐたが、多分、敵の監視兵でもゐたのであらう。
 こゝからは、保定の城内が指呼のうちに見渡せる。意外だつたのは、アメリカとフランスの国旗がそれぞれ、いくぶん風変りな建物の頂に翻つてゐることであつた。一方は教会堂、一万は修道院で病院を兼ねたものだとのことであつた。フランスの尼さんがいくたりとか、大胆にも砲火の下に蹲り、日本軍の進入を待つてゐたのだと聞けば、私の好奇心は動かざるを得ぬ。しかし、事情あつて、私はその訪問を思ひ止つた。
 それから、商店街と覚しい通りへ出た。大きな店は大抵まだ閉つてゐる。閉つてゐる門には○○隊の貼札がしてある。曰く「居住者ナキ人家ニ入ルモノハ厳罰ニ処ス」。軍律の厳しさを思はせ、私は、ひそかに感謝の念にうたれた。
 もう、北門の聳えてゐる前に来た。扉は重く鎖されてゐる。城壁の上を歩いてみる。幅は三間もあらうか。地下室を設けた散兵壕が、蜿蜒と続いてゐる。機関銃座がある。支那兵が弁当を食ひ散らした跡が歴然と残つてゐる。缶詰の空缶に蠅がたかり、砲弾の破片が脱ぎ棄てた靴と一緒にころがつてゐる。城壁の外はとみると、これはまた半永久陣地の帯が幾重にも築かれ、所謂戦車壕と呼ばれる深い堀が要所々々に掘つてある。土の色はまだ生々しく、夕暮の靄が底をつゝんでゐる。
 街には灯がとぼらぬのに、空を仰ぐと月が白く浮び出てゐるのに気がつく。今夜は満月であつた。
 城壁の上には、雑草と灌木が生ひ茂つてゐる。ナツメに似た黄ろい実が刺のある枝に生《な》つてゐる。同行のお巡りさんが、それをひとつもいで口の中へ抛り込んでみせる。食べられるから食べてみろと私に勧めるらしかつた。私はたゞ、その小枝を一枝折つて図嚢の中へしまつた。
 さつきからわれわれ一行の先導をしてゐる恰幅のいゝ老人が、帰りがけに、その住居でもあらうか、ある建物の前へ来ると、切《しき》りに寄つて行けといふ身振りをする。門の中を何気なくのぞくと、蝶々のやうに舞ひ戯れてゐる一群の少女たちの姿が眼に映つた。私はおやと思つた。
 これは、迂闊ながら、歌妓の家であつた。つまり、芸者屋兼待合である。
 井河氏の説明によると、こゝらは、この町で最も高級な部類に属し、今の老人は、日本で云へば三業組合の頭といふやうな役柄だとのこと。それでゐて、これらの歌妓と共に宴席に出れば、忽ち、楽人となつて胡弓を弾くのださうである。
 戦塵遠ざかつて、平和の歌の第一声は、或はこのへんから聞えだすのであらうか?
 警察局の一室に支那兵の遺棄した武器が積みあげてあつたので、私は、初めて青竜刀なるものを手に取つてみた。こんな重いものをどうして使ふのかと、二三度斬りおろす真似をすると、側に控へてゐたお巡さんの一人が、そいつを両手に持つて、脚を踏ん張り、腰をひねり、気合もろとも、前後左右に振り廻してみせた。得意の手並を示すつもりである。

     靖郷隊

 晩餐の卓子には、お客が大勢あつた。
 主人側とでも云ふか、井河氏のほかに、例の局長とお婆さんの顔がみえ、客側として、日本人が四五人、そのなかに、満洲を本拠とする御用商、五十嵐組の若主人なる人もまじつてゐる。保定入城前後の模様、殊に、現在に於ける日本人の経済活動など詳細に聴くことができた。
 先づ私の興味をひいたことと云へば、軍人軍属に非ざる日本人、つまり、個人として商売を目的に既にこの土地にはひり込んで来てゐる日本人の数が、老若男女を合せて数百名に垂んとするといふことである。
 もちろん当局に於て、適当な選択制限が加へられてゐるのであらうと思ふが、それにしても盛んなものではないか!
 なるほど、その翌日のことである。井河氏を訪れて家屋賃借の許可を得に来た日本人男女の云ふところを聴いてゐると、なかなか面白い。
「手前どもは新京で料理屋をやつてゐるものですが、今度、こちらでひとつ、店を開かうと思ひます。如何でせ
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