色と云へば、さつきから日本の女の着物がちらついてはゐるが、気のせゐかどれもこれも曰くありげな風体に見え、正視するに忍びない。こんなところで感傷的になるのはをかしいが、何れは慣れつこになるであらう。
私は、将校たちと別れて、前の方の車に乗つた。
これも内地から派遣されたばかりだといふ大朝東朝の記者諸君と一緒になつた。
従軍記者も二三個月第一線にくつついて歩くと、何れもへとへとになるらしいといふ話など出る。さもあらうと思ふ。
汽車は最小速力で進む。沿道は荒寥たる不毛地のやうに見えるが、それは土の色がまつたく違ふからで、到るところ、棉、唐もろこし、白菜など作つてあるのが、今年は手入れもできぬといふ状態にあることが察せられた。
線路の傍らに一台の機関車が顛覆したまゝ風雨にさらされ、赤く錆びついてゐるのが見えた。
電柱がひと並び倒されてゐる。
柳であらうか、見渡す限りの平野に、ところどころ、こんもりと茂つた樹が立ち並んでゐる。人影はほとんどない。
天津に着いたのは午後五時、早速、軍司令部へ自動車を走らせる。
市中は、これこそ殺気立つてゐると思はれたが、それも停車場附近で人力車夫が争つて客を呼ぶ声をさう取つたのは致し方もない。街々に日本の兵隊があふれてゐることは事実だ。しかし、内地でも地方の衛戌地ならこれくらゐの割合で兵隊さんの姿に出会ふであらう。
たゞ司令部だけは、物々しい警戒ぶりだ。先づ衛兵の身構が違ふ。平服の悲しさで私は恐る恐る名刺を差し出した。
「宣伝部のK中佐にお目にかゝりたいのですが……」
指さゝれる方へたゞ歩いて行き、途中で会つた一将校にしかと道を訊ねた。
宣伝部は二階の広い部屋で、その出口の横に新聞記者控室があり、壁に各社名を書き込んだ札が並んでゐる。文芸春秋社といふのもあつた。その下に「不在」と赤字の札が下つてゐた。
控室をのぞくと、大テーブルの周囲にそれぞれ陣取つて、司令部の発表を待つてゐる記者諸君の顔が見える。連絡の給仕を後ろに待たせてゐるのもある。
正面の黒板にや発表係の将校が念のために描いてみせた地図であらう、白墨で道路と高地の曲線が戦術教官の要図そのまゝ無造作に描きなぐつてある。攻撃の重点を示す矢の印が、その上を斜に太く走つてゐる。
K中佐には、陸軍省の松井中佐から紹介を貰つて行つたのだが、生憎不在であつた。代つて、M少佐からいろいろと参考になる話を聞かせて貰つた。
「あなたのものは、何時か汽車のなかで、『富士はおまけ』といふのを読みましたよ」
「あゝ、さうですか」
と、私はちよつと照れて、今度戦地を訪れた自分の目的といふやうなものを簡単に述べた。M少佐はよく私の意のあるところを汲んで、できるだけ便宜を計るからと、非常な好意を示された。私は、できれば観戦武官の一行に加へて欲しいのだがと頼んでみた。
「多分いゝと思ふが、明日もう一度来てみよ」といふことであつた。
その夜は、同船したT書記生の配慮によつて、私は英租界のタラチ・ハウス・ホテルに宿をとることができた。日本租界の宿屋は満員だといふ話を前もつて聞いてゐたのである。
租界文化
夜は、支那語に堪能なT書記生の案内で市中を散歩した。
日本租界へはひり、交通巡査に一番賑かな通りは何処かと訊ねたら、かう行つてかう曲つたとこだと教へられ、われわれは植民地の銀座通りを想像しながら、暗い通りをその方角へ歩いて行つた。
それはたしか常盤街と云つたと思ふ。なるほど人通りは目立つて多く、両側の家からは珍しく明りが漏れてはゐるが、それは、内地の所謂花柳街に相当するものであることがすぐにわかつた。芸者屋、料理屋、待合風の家、その間に、寿司や、蕎麦や、生菓子やなどが軒を並べ、その何れもが、支那風の建物に入口だけ格子や暖簾をくつつけてゐる異様な風景は、ちよつと他の租界では見られまい。しかし、日本人の郷土色尊重はかういふ形で常に現れるといふことを私は幾多の例で示すことができる。
さう云へば、各国の租界が面白い対照をなしてゐるのは、それぞれの辻に立つ交通巡査の服装である。
英国は紺の胴に白い幅広の袖をつけた軽快なもの、仏国は、カーキ色の兵隊服は平凡だが、帽子は例の黒に赤い縁をとつた純フランス風のケピイがなかなか小粋である。ところが日本はとみると、これは誰が考へだしたのか知らぬが、甚だ間の抜けた支那保安隊式のもので、その上、ほかの租界のお巡りさんのやうに、得意げには見えないのである。そのせゐかどうか、日仏両租界の境界に、両方のお巡りさんが向ひ合つて立つてゐるが、一方は安南人でもいつぱしフランス人気取りで、日本側の支那人巡査を小馬鹿にしてゐる風がありありと窺はれた。
こんなことを気にすると末梢的だと嗤はれさうだが、私は、支那に於ける「日本」が、あらゆる点で、平素から民衆の眼にもつと洗練された趣味、殊に近代的なスマートさを誇示してもらひたいやうな気がするのである。欧米依存の風潮は案外、こんなところにも一原因があると考へられないことはない。支那に於ける各国の租界文化といふものを当局は政治的に検討してみたらどうか?
それはとにかく、ホテルに帰ると、私は、T書記生をつかまへていろいろな質問をした。この人は事変前、やはり支那沿岸のある領事館に長らく勤務してゐた経験から、支那に於ける日本人の問題について相当面白い話題をもつてゐた。今それをいちいち紹介する暇はないが、こゝにも日支関係調整のひとつの鍵が秘められてゐるのを知り、今度の事変は、益々複雑にしてしかも微妙な将来を、われわれ国民の肩に投げかけるものであると思つた。
英人経営のこのホテルは、まづこの土地では一流と云つてよいのであらうが、ボーイは悉く支那人で、その点、甚だ妙な具合である。日本人にサーヴイスなどごめんだといふやうな強硬な手合はゐないのであらうか? ちよつとでも所謂「侮日的」態度が見えたら、私の一夜の眠りは安らかなるを得まいと案じられた。ところが、腹のなかはどうか知らぬが、表面はなんの変りもなく、寧ろ義務を義務として忠実に果すといふ風が見え、特にお愛相がいゝとまでは行かぬにしても、決して不愛想ではない。
私は喉が渇いたのでアイス・ウオーターを持つて来いと命じた。すると、なにかの空瓶に生温い水を入れ、それへコツプをかぶせて持つて来た。水は一度沸かしたものだからそんなに冷くはないのださうだ。
で、その理窟といつしよに、私は一杯の湯ざましを飲み込んで、今日日本租界の本屋で買つたばかりの「抗日論」を読みはじめた。時と云ひ、場所と云ひ、この翻訳論文集は興味湧くが如くであつた。
蒋介石ほか十七人の、それぞれ時局を指導するためにものした文章が、こゝで様々な重要人物の思想と風貌を浮びあがらせてゐる。馮、張、毛、章、徐、胡(適)、何、陳、宋(慶齢)の言論は、殊に代表的なものである。
この度の事変に対するわが国民の認識、就中、知識階級全般の覚悟を促すために、これらの文献は是非広くわれわれの間で読まれなくてはならぬと思ふ。
それにしても、日本人の、いざといふ場合の挙国一致ぶりは誠に眼ざましく、頼もしい限りである。それだけ、政治家の責任が重いといふことを政治家自ら深く肝に銘じておいて欲しいものである。
その翌日、私は、司令部に出向いて、従軍記者の腕章を貰ひ、M少佐から昨日の返事を聞いた。残念だが観戦武官とその案内者で飛行機の座席が満員であるから、同行の儀はむつかしいとのことで、止むを得ずそれは諦めた。が、そこで、私は早速保定に行きたいと云ふ希望を述べると、それなら、連絡機に乗せてやつてもいゝとの有りがたい取計ひに、私はほつとした。実を云ふと、天津から保定まで今のところ普通で行くと三日かゝるのである。それが一時間で着くのだから、こんな時間の経済はない。
その場になつて間誤つかないやうに、私は、夕刻自動車を駆つて臨時飛行場を検分に出かけた。飛行機は、翌朝八時に出発といふことであつた。
まづ安心と、それから、街へ引返し、日本租界のなんとか公司といふデパートへはひつてみた。ガマ口が破れかけて来たのと、襟巻を何処かへ置き忘れて来たので、代りを新調せねばならぬ。各売場をひと渡り廻つて歩いた。素晴らしい支那美人の売子の前に髭面の兵隊さんが集つてゐる。小間物の売場で煙草はないかととぼけてみたりする。女売子は、その典型的な柳眉を心もち寄せて、つんと澄ました。しまひに、誰がなんと云つても返事をせず、たゞ面倒臭さうに首を横に振るばかりである。流石の兵隊さんも根負けをしたらしく、「行かう、行かう」と云つて立ち去つた。
私は、ふと、自分の捜してゐるガマ口がそこに並んでゐるのに気がついた。硝子箱の中の気に入つたのを出してみせろと指でさすと、件の女売子は、頗る横柄な手つきで、それを私の前へ抛り出した。
「いくら?」
「……」
口の中でなにやら答へたらしいが、よく聞えない。
「え?」
「……」
「わからない」
「一円五十銭」
と、彼女は、鈴虫のやうな声できつぱり日本語を操つた。
金を出さうとすると、彼女は、そこにおいてある呼鈴をヂヤンヂヤン鳴らしだした。何時までも止めない。なんの合図かと思つてゐるうちに、向ふから給仕風の男の店員がやつて来て、私の出した金を受け取つて行つた。さて、彼女はおつりと一緒に品物を私の方へ押しやつたと思ふと、あとはもう、素知らぬ顔で、横を向いてしまつた。凄艶と云ふ言葉が実によく当てはまるやうな顔かたちである。が、サーヴイスは日本なら落第組であらう。但し故らさうしてゐるのだとすれば、また何をか云はんやである。それにしても女は飽くまでぢつとしてゐて、男がお使ひをする仕組が、デパートだけに面白い。やはり、支那の習慣としてはそれが当り前なので、女をこき使ふのは日本だけの美風だと一時は思つたが、これは独断を避けるためにもうひとつの見方をせねばならぬ。即ち陳列品から一つ時も眼をはなせない土地柄だといふことだ。
空の一騎打
荷物を半分ホテルの帳場へ預けて、朝早く飛行場へ駈けつける。
白状すると、私は、飛行機といふものに乗るのはこれがはじめてゞある。
それほど急ぐ旅をする必要もなかつたし、また、なんとなく億劫でもあつたから、つい食はず嫌ひみたいなことになつてゐたのだが、いざこれからあの機械で空中何百尺の高さを飛ぶのだぞと自分をおどかしてみても、一向危きに近づくやうな気はしない。それどころか、いよいよこれから鉄砲の弾丸の下をくぐるのだと思ふと、乗り物がなんであらうと問題にならぬといふのがほんとの気持であつたらう。
空中飛行の感想などは時節外れだからやめにするが、天津の街を真下に眺めた時は、夢うつゝで自分の在りかを捜すやうな錯覚に陥つた。
が、それでも、高度八百といふ指針に眼を据ゑ、プロペラの力強いうなりに耳を澄してゐるうちに、この壮快無比な空の旅を楽しむ余裕ができて来た。
腰にさげた図嚢から北支の地図を取り出し、水筒の蓋についてゐる磁石を投じて、方向を見定め、度々話題に上る津浦線一帯の大浸水がこゝまで及んでゐるのかと疑ふひまもなく、それはまさしく、畑も部落もたゞところどころ水面に形を現してゐるだけの、見渡す限り、水また水の連続であることがわかつた。
それでも、どうかすると、一部落の周囲に堅固な散兵壕を築いた跡などが見え、思はずからだを乗り出すこともあつた。白洋淀といふ湖を越えると、次第に、山の姿がはつきりして来る。畑の区劃が竪縞の織物を並べたやうに美しい。灰色の城壁に囲まれた保定の街が、小さく地平線に浮ぶ。窓の一方へ急に地面の模様が映る。飛行機が旋廻をはじめたのである。着陸。一旦外へ出る。
「S部隊長は何処にゐますか?」
「前線に出られた」
参謀の答へである。
「今日は帰りませんか」
「わからん」
急いで、また飛行機のなかへはひる。保定に近いもう一つの飛行場まで運んで貰ふためである。
S部隊長は、同期生で○○機の部隊長である。前線と云へば石家荘あたりか?
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