ゐる。隣には、比叡山の従軍僧、向ひにはT書記生と支那人Fといふあんばいである。
 日本の将校連は将校連で、別のテーブルを占拠してゐる。外国武官の一行は、また別のテーブル、但しシヤムだけは特別の一卓が与へられてゐる。婦人の乗客が四人、何れも米国人、これがまた独立陣を張つてゐる。天津、北京から避難して来た女学校の先生たちで、もう大丈夫だからそれぞれ任地へ帰るのださうだ。
 何か面白い話が聞き出せさうだが、おいそれと誂へ向きにジヤアナリストの精神を発揮するわけにも行かず、始終隙をうかゞつてゐたにも拘はらず、遂に絶好の機会を捉へ損つた。
 ところが、二日目の日、コレラの予防注射をまだしてないものは二等の食堂へ集れといふ布令が出て、私も三分の一だけ残してあるので、注射液をもつて出掛けて行くと、もうそこには半裸体の群集が押し寄せてゐた。
 私は、順番がなかなか来さうもないので、何時でも裸になれる用意をして一隅のベンチに腰かけてゐると、そこへ、かの米国婦人の一人がのつそりはひつて来た。
 どうするかと思つて見てゐると、つかつかと私のそばへ来て、
「背中へするのか?」
 と訊ねる。
「イエス」
 私は英語がよくわからないけれども、この女の表情はなかなか豊かで、こんなに人のみてゐるところで女を裸にしていゝのかといふやうなことを喋り、子供が泣きだすと顔をしかめ、可哀さうにと、これも眼顔で私に同感を求める。
 私は黙つてうなづき、かうしてゐてはきりがないので、早くすまして貰はうと自分もシヤツの釦を外しだした。で、試みに、その時フランス語で、
「さあ、マドモアゼル、あなたの順番がもうぢき来ますよ」
 と云つてみた。
 彼女は、何を思つたか、大きく眼を見開き、これは敵はんといふ顔をし、こそこそと部屋を逃げ出して行つた。
 その後、彼女だけは、私に会へば挨拶をした。生憎フランス語はこつちの英語ほど覚束ないので、こつちが「モーニング」と云へば向ふは、「ボン・ジユール」と云ふのがせいぜいであつた。
 しかし、いよいよ上陸といふ前の晩、喫煙室で、彼女の連れの一人が、私に碁の打ち方を教へろとだしぬけに云ひ出した。
 私は、本式の碁はあなた方にむづかしいから、五目並べといふ別のゲームを教へようと答へ、二人で三十分ほど五目並べをやつた。すると、そこへほかの三人が集つて来た。一番年寄りの如何にも女学校の舎監然たる婆さんが、横から熱心にのぞき込んでゐた。
 この婆さんは少しフランス語を話すらしいので、合ひ間あひ間に、事変問答をしてやらうかと思ひ立つたが、どうしても気がひけて切り出せない。
「あなたは天津へお帰りですか?」
「さうです」
「天津には長くお住ひですか、もう?」
「十五年」
「……」
 支那は住み心地がいゝですか、と訊かうとして、つまらなくなつてよした。
「あなたおやりなさい」
 私が席を起つと、その婆さんは、大急ぎで盤に向つた。
 見覚えたにしてはこの婆さん、なかなか頭がよく、寧ろ意地の悪い手の連発で、易々と彼女の一番若い、そして、一番美しい同僚をひねつた。
「おゝ」
 と叫んで、負けた方は、私の顔を見た。気の毒だが、どうしやうもない。

     最初に会つた同期生

 門司でも幾人かの将校が乗り込んだ。
「おい、岸田ぢやないか」
 アレキサンダアに似た工兵中佐が私の肩を叩いた。
「忘れたか。Sだよ」
「あゝ、さうか」
「何処へ行くんだい」
「うむ、従軍記者だ。よろしく頼む」
「ほう……それはそれは……。貴様の書くものはうちの嬶が読んどるぞ」
 もう一人の騎兵中佐が、その時、私の方へ歩み寄り、
「しばらく……。私、Yであります。幼年学校でお世話になりました」
 さう云へば、私が三年の時、このYは一年生ででもあつたのだらう。
「今度は隊長ですか。今迄は?」
「騎兵学校にをりました。さつきから、どうもさうぢやないかと思つて……やつぱり変つてをられませんな」
 上陸の前夜、食堂で、何時の間にか将校たちの酒宴が開かれてゐた。
 外国武官連も、その時はじめて彼等の仲間入りをした。
 さながら聯隊の将校集会所であつた。
 ボーイは当番の如く右往左往した。
 米国中佐は流暢な日本語で、
「××参謀長閣下には以前大へん御厄介になりました。お酒ですか? いや、私はあんまり頂けませんです」
 Yが高らかに詩吟をやりだした。
 英国中尉に木曾節を歌へと責めてゐるのはSだ。たうとう自分でやり出した。
 と、だしぬけに、Yはポーランドに握手を求めながら、
「君の国はなかなかよろしい。日本の味方だらう」
 と、それを私に通訳しろである。
 私はペルウとポーランドを彼は間違へてゐはせぬかと思つたが、そんなことはまあいい。英米の方へ五分の注意を払ひながら、その意味を伝へてやつた。
 ポーランドは、「メルシイ、メルシイ」と云つてYの手を握つた。
 さつきから、この壮快な雰囲気のなかで、酒を飲まずに始終微笑をふくんでゐた日本の一大佐は、傍らの米国に向つて訊ねた。
「どうです、日本の将校は元気でせう」
 すると、米国は、なんでも呑み込んでゐるといふ風に、
「いや米国でもおなじです。戦地に向ふ前の米国将校と来たら、こんなことぢやすみません」
 大佐は、そこで、鷹揚に、天井を仰いで呵呵大笑した。
 私は、Sから盃を受けながら問うた。
「君は、どの方面へ行くの?」
「わからん○○○へ行けと云ふ命令を受けたゞけで、その先は聞いてない」
「新しい部下を渡されるわけだね」
「うん、一日一緒にゐれば新しいも古いもないさ。そこが軍隊の有りがたいところだ。なあ、さうだらう」
「さうだ」
 と、私は、彼の眼をぢつと見つめた。――いゝ隊長だな、と感じた。

     親日家

 船が朝鮮沖にさしかゝつた時、私宛の無線が配達された。
「ブジゴコウカイヲイノルマスヲ」
 大連にゐる弟からである。どうして私の旅行を知つたか? もう十五年も会はずにゐる彼のことを思ふと、帰りに寄れたら寄つてみたい。
 その他、船でわりに話をし合つたのは支那人のFである。
 この人は上海の商人だといふことだが、日本語も相当でき、言葉のはしばしで、所謂、事変後の工作に乗り出さうとしてゐる有力な親日家だといふことが察せられた。
 こんなことを何処まで書いていゝか、むろん大事なことは本人が漏らしはすまいと思ふから、こつちは遠慮なく聞いたまゝを書く。
 彼は云ふ。
「日本の支那通で支那のことわかつてゐるものごく少い。支那にいろんな支那ある。支那人にいろんな支那人ある。いつしよにする、よくない」
 私は聴いてゐる。が、時々こんな質問をしてみる。
「あなたは支那人として、今度の日本の行動を全然間違つてゐないと思ふ側の人ですか?」
「さう、間違つてゐない。少し遅いくらゐです。もう二年たつたら、駄目、効き目ない」
「なぜ?」
「支那強くなつて、負かすのむづかしい」
「待つて下さい。それぢや、あなたは、日本の行動を是認するばかりでなく、支那が負けることを望んでゐるんですね」
「蒋さん、負けるのかまはない。国民党ある間支那幸福になりません」
「でも、たつた今、あなたは、もう二年たつと支那は強くなりすぎると云ひましたね」
「軍隊だけです。人民は苦しい」
 Fは、しかし、もとは軍人ださうである。しまひに、日本の士官学校出身だといふことまで告白した。
「北支那はどうです? 大学なんか復活するでせうか?」
「大学はいりません。共産党の学生をつくつてもなんにもならない」
 話は簡単だ。
 太沽で、風のために一昼夜上陸が遅れ、しびれを切らしたわれわれは、ランチの姿をみつけると、思はず躍り上つた。
 ○○艦が一隻、沖を走つてゐる。

     ○○部隊長

 ランチは、白河を溯つて、塘沽に向つた。粘土色の水が陸との界を曖昧にしてゐる。
 白河といふ名前の由来をFが話して聴かせた。
「一般には、この河が九十九曲り曲つてゐるので、百から一を引いた、即ち白河と名がついたやうに云はれてゐるが、実は、それはこじつけで、冬になると一面に凍つて白くなるところからさういふ名が出たのだ」
 それはどつちでもいゝが、このへんに来て驚くことは、水上陸上ともに、英国旗のあちこちに翻つてゐることである。
 塘沽では、S中佐その他と共に同地の○○部隊本部を訪れた。部隊長がHといふ、これも同期生だといふことがわかつたからである。
「よう、やつて来たか」
 と、H中佐は、起ち上つた。
「うむ、さうか。恰好はなかなか勇しいのう」
 Sの説明を聞いて、彼は、私の背広の腰に水筒と図嚢をぶらさげた異様な姿を見上げ見下した。
「後方勤務はおれの柄ぢやないわい。しかし、大いにやつとるぞ。此処の王様ぢやからのう」
 そこへ副官がはひつて来て、街路拡張の問題について住民代表が全部集つてゐると報告した。
「よし、いま行く。おい、昼飯を御馳走しよう。兵隊の麦飯もたまによからう」
 ○○は兵糧の元締だから物資豊かで贅沢に事欠かぬやう俗に考へられてゐるが、その○○の親玉の御馳走はとみると、これはまた思ひきつて質素な、そして手荒な兵隊料理であつた。しかし、私は、船の食事に飽きてゐたせゐもあり、甚だ食慾を覚えた。
「おれは兵隊と同じものを食つとるんだが、第一線のことを思へばね」
 Hは、なんの衒ひ気もなく、さう云つて箸を取りあげた。
 その後、前線を親しく見廻つて、私は痛切に感じたことだが、戦闘部隊は時としてまつたく給養の道を絶たれ、やむを得ず大根や生薯をかじつて饑を凌いでゐるのである。しかし、後方勤務の部隊は、殊に将校であれば少しの我儘は許されさうである。それをHの如く、断じて易きに狎れない覚悟をもちつゞけるといふことは、なかなか凡夫にはできがたい業だと今更敬服してゐる次第だ。
「つい二三日前、敵の飛行機がこの上へ飛んで来てのう」
 と、Hは愉快さうに語る。
「ほれ、あそこに造船所があつたらう。あの附近へドカン/\と落して行きやがつたよ。やられたのは支那人ばかりさ。馬鹿野郎だ」
「こつちに防備はないのか?」
 私はうつかり訊ねた。
「う? うむ……ないことはない。○○砲が○門ある。当りやせんよ」
「逃げ脚が早いでのう」
 と、まだ敵の飛行機を見たこともないSが応援した。
 妙なもので、将校たちが、例へば、○○砲は当らんといふのを聞くと、素人はなるほどそんなものかと思ふかも知れぬが、それは彼等の言葉癖を解せぬからである。あからさまに云へば、彼等は、自分の属してゐる兵科の自慢は大つぴらにやる代り、他兵科をわざとこきおろす無邪気な習慣がある。決して、近代武器の威力を軽しとするわけではない。逆の例を云へば、某飛行将校は、今度の実戦の経験を私に語り、飛行機の強敵は有力な敵機に非ず、砲兵に非ず、機関銃に非ず、寧ろ散開せる歩兵の小銃射撃なりと断言した。味ふべき説である。
 さて話が混線したが、われわれは腹がいつぱいになつたところで、Hに暇を告げた。
「コレラなんかにやられるな」
 私が戯談をいふと、
「うむ、貴様も流れ弾に用心しろ」
 送つて出ながら、彼は、Sに囁いた。
「こゝにをると前線に出る同期生がみんな訪ねて来るよ。おれは云つてやるんだ。――貴様早くくたばれ。さうせんとおれに隊長の番が廻つて来んつて……」

     天津まで

 塘沽の停車場は雑沓を極めてゐた。
 そこで私は、最初に支那民衆の表情を読み取らうとしたが、なんのことはない、みんなのんびりとしてゐて、こつちだけが緊張してゐるのに気がついたくらゐである。一人一人についてはどうとも云へぬが、かうして群衆としての彼等を観察すると、そこには戦争などといふものか如何なる形でも映つてはゐないやうに思はれた。寧ろ、この雑沓の印象は、彼等の間を縦横に掻き分ける様々な日本人の姿が目を惹くせゐであることもわかつて来た。
 藍鼠の水兵服に真つ赤な袖章をつけた伊太利の守備兵が五六名、なんの屈託もなささうにプラツトフオームを往つたり来たりするのが、たゞ一つの明るい色彩である。
 明るい
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