児童読物もさうでありますが、殊に対話の部分は子供が口真似をして日常生活の中に取入れる。そこで「対話」の読み方、厳密にいひますと「対話の言ひ方」又は「話し方」は国語教育の立場から非常に注意を要することではないかと思ひます。殊に是が戯曲的な感覚をもつて書かれた「対話」である場合は、これを肉声化することによつてその生命が決定的なものとなります。つまり肉声化の仕方が悪いといふことはその文章を致命的なものにしてしまひます。是はその中で言はれてゐることが面白いとか面白くないとかいふこと以上に、そこには外の文体には見られない独特な一つの魅力がある、それは心理の起伏を瞬間にとらへる、誘導的といふ言葉を使ひます、誘導的な演劇的イメーヂといふものが戯曲の文体の中では躍つてゐるのです。例の「五作ぢいさん」のやうな対話も、折角かういふ形式を選んだのだから、もう少し戯曲的起伏をもつたものにしたかつたと思ひます。このまゝでは散文的対話です。それも勿論あつてもいいのですが、かういふ人物と情景を選んだならば、態々散文的に書く理由はないでせう。この一章は教科書全体を通じて、その意図の面白さにもかゝわらず、結果は成功と思
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