繰り返して言ふ。優れた演劇が「優れた戯曲」の「優れた演出」から生れることに異論はあるまい。然しながら、「優れた戯曲」は常に「優れた演出」を予想して書かれたものであることを忘れて欲しくない。従つて、「優れた戯曲」を選ぶことは「優れた演出」の根本要件であることを肝銘しなくてはならない。たゞこゝで、築地小劇場が、これから試みようとする「新しき演出」に、われわれのいふ「優れた戯曲」を要しないと云はれゝばそれまでゞある。それなら、その「新しき演出」の為めに必要な「優れた戯曲」とは如何なるものか、これが、問題である。興味のある問題である。
 僕は、主として仏蘭西の芝居を通して、演劇の如何なるものかを学んだ。従つて、見聞は甚だ狭いわけである。然し、個人的趣味乃至民族的努力を別にして、演劇の本質的価値といふやうなものは、古今東西を通じて、それほど差異があらうとは思はれない。時代時代を劃する反動的運動の如きは、大局から見て第二義的の問題である。希臘劇の優れた劇的要素は、形と色に於てこそ別種のものであれ、シェクスピイヤの戯曲にも、ラシイヌの戯曲にも、ミュッセ、イプセン、ストリンドベリイの戯曲にも、チェホ
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