教育(学校、社会、家庭を含めた)のうちに、これをつきとめなければなりませんが、一面、社会心理の方から見ていくと、これは明らかに、個人々々が「時の大勢に就かうとする」保身の本能から出てをり、また、もう一歩突つ込んで云へば「人が許しさへすれば、どんなことでもしでかす」といふ、かの群集心理に見られる信念の麻痺からも来てゐると思ひます。要するに、精神の矜りを失つた人間の、常に、「一番楽な道を通らう」とする、怠惰で、かつ、慾深い性質の現れであると、私は断ずるものであります。
ところで、この「俗つぽさ」が「卑しい」ことであるといふ観念を、先づ青年が強くもつてゐて、世間の無自覚な風潮と飽くまでも戦つてくれさへすれば、現に一世を風靡してゐる「卑俗な」現象は、全くあとかたを絶たないまでも、少くとも、人前を憚からず横行することだけはなくなるだらうと、私は信ずるのです。
それには、純潔な青年の魂が、おのづからもつてゐる「高きもの」への憧れ、「美しきもの」への愛、「真実なるもの」への傾倒を、ひたすら推し進める勇気が絶対に必要ですが、それと同時に、「高きもの、美しきもの、真実なるもの」をその偽物と峻別し得る、鋭く豊かな「文化感覚」の錬磨を怠ることはできません。
類ひなく輝かしいわが国体の尊崇は、われわれの現在生きつゝある日本の、世界に冠絶する理想のすがたを夢みる一臣民としての悲願と、その悲願を幾代かゝつても達成しようとする、ひたぶるな意志とによつて示されなければなりません。
日本の理想顕現を阻む敵は、外に米英ありとすれば、内に「卑俗な精神」ありと、敢て私は云ひたいのであります。
[#7字下げ]六[#「六」は中見出し]
以上、能率と健康と品位と、この三つを「文化」の現れとして現在の国民生活のなかにしつかり植ゑつけなければなりません。
そして、この三つは、互に持ちつ持たれつの関係にあるのです。即ち、能率を上げるためには心身の健康が大切であり、健康を保つためには能率のいゝ生活をしなければならず、生活の品位は、精神の健康を基礎とするものであるといふ風に、絶えずこの三つの点を同時に考へて行かねばなりません。
そして最後に、正しい意味における「教養」とは、これら三つの条件を、完全な力として身につけることを指すのだといふことを銘記してほしいと思ひます。すぐれた「文化」をもつとは、正しい「教養」を身につけることだといふ、今日一般に通用してゐる言ひ方もこゝではじめて間違ひないことになるのであります。「教養」と「文化」とはいはゞ手段と目的といふやうなものであつて、教養が深いといふことは、自ら高い文化を身につけてゐるばかりでなく、一国の文化を代表し、これを指導する役割をもつてゐることを意味してゐるのであります。
これまで、「文化人」といふ妙な言葉が使はれてゐました。「知識人」とか「知識階級」とかいふ言葉の内容とも違ひ、これは、一般に精神労働とも称せられる仕事に従事する思想家的傾向のある学者、文学者を含む著述家、芸術家等を主に指すやうでありますが、時には、そのほかの職業に従事してゐるものでも、特に読書家であつたり、多少高級と思はれる趣味を解し、わけても文学芸術の愛好者であるといふやうな場合、これを「文化人」と呼ぶ習慣もありました。
殊に注意すべきは、「文化人」と云はれるためには、多少、どこか西洋臭いところがなければならぬといふ漠然とした感じがあつたことであります。つまり、西欧的な教養と、「近代的文化」といふこととは、切離すことのできないものでありました。
以上は、「文化」といふ言葉が、甚だ狭く、しかも歪んで考へられてゐた証拠であり、また、この言葉が西洋の言葉の翻訳であるために、「文化」そのものまで、なにか西欧的なものでなければならぬやうな誤つた観念から来た重大な錯覚であります。
これと同じやうな言葉の濫用、考への不徹底が到るところにあります。例の「文化住宅」といふやうな言葉がそれです。
元来、住宅などといふものは、最もその国の風土習慣を重んじなければならぬものであり、その建築は、いづれの点からみても、国民生活の特色を発揮し、時代の変遷に応じたその国の文化を如実に現すべき筈のものであります。従つて、厳密に云へば、文化住宅などといふ言葉は意味をなさないのでありますが、一歩譲つて、「文化」の最尖端を行く住宅建築のことを指すなら、それは第一に、民族興隆の意気と理想とを象徴するものでなければならないのであります。
ところが、事実は、「文化住宅」といへば、概してもの欲しさうな和洋折衷の簡便主義、赤瓦青ペンキといふ風な植民地的享楽気分が土台になつてゐるのが普通であります。
なるほど、「文化住宅」の設計者は、これこそ経済的条件のゆるす限り、合理的かつ趣味的要求を満たしたものと云ふかも知れません。時代の風潮といふものは恐ろしいもので、合理的とは簡便第一であり、趣味的とは伝統を忘れて感覚の刺戟を追ふことだつたのであります。
[#7字下げ]七[#「七」は中見出し]
こゝで、私は、文化の水準をはかる尺度について一言したいと思ひます。前に述べた、能率、健康、品位は、国民生活そのものの、正しい体制を整へる目標でありましたが、今度は、ひろく「文化」の価値標準を、どこに目安をおいて測つたらよいかといふ問題であります。これは、人間一人々々についても、あらゆる物件のひとつひとつについても同様のことが云へると思ひます。それは、ごく大ざつぱな、常識的な考へ方でありますが、先づ、人なり物なりの道徳性といふことが一つ、国体に憚るところはないか、人道に適つてゐるか、邪《よこしま》なところはないか、神を畏れぬ不逞なところはないか、仮面をかぶつてはゐないか、つまり、道徳的にみてどうであらうかといふ標準であります。それから、その次は、科学性とでも云ひますか、知的にみてどうかといふ標準であります。理窟に適つてゐるかどうか、物の考へ方が正確であるかどうか、頭が一方に偏してゐないかどうか、心深いところまで見きはめられてゐるかどうか、これが一つ。第三には、美しいか醜いか、言ひ換へれば芸術性の高い低いであります。美しさにもいろいろありますが、ほんたうに美しいものは、自然を除いては稀であります。人情の美しさは道徳的とも云へますが、道徳を超え、道徳では律せられぬ美しさが、人間の精神のすがたと働きのなかには往々にしてあるのであります。これを発見する眼はむろん必要であります。芸術的な眼とでも云ひませうか。物の美しさも、その人の眼の高さによつていろいろに映り、それほど美しくないものを非常に美しいと思ふのは幼稚な感覚をもつてゐるといふことになります。反対に、人の気のつかないやうなもののうちに、すぐれた美の要素を認めるのは、その人の心の窓が「美」に向つて大きく開かれてゐるからです。しかし、およそ感覚、感情を通じてうつたへる美しさは、特別のものを除いて、万人の胸にひゞくものであり、その美しさの程度は、「文化」の一つの標準と考へるべきであります。
道徳性、科学性、芸術性、この三つの性格は、文化を形づくる主な内容であることは、人間の活動が、知、情、意の三つの働きに帰することからみてもうなづかれると思ひます。更に、人間の理想として永久に追ひ求める真、善、美は、また、この三つの「文化」の面に符合するわけであります。
たゞ、この三つの要素は、飽くまでも、不即不離の関係になければなりません。このうちの一つだけが完全に備はつてゐるといふやうなことは、事実あり得ないばかりでなく、またさういふ風に見えることは、「文化」の歪みであり、不健全な状態であります。
例へて云へば、道徳的にみて正しい人物と仮りに折紙をつけられるやうな人物でも、往々、物の考へ方が偏狭で、味もそつけもなく、判断が軽率で、常識さへも疑はれるといふやうな半面をもつてゐたりするのは、少くとも、「文化」といふ点からみれば、明らかに不具者と云はなければなりません。また、芸術家乃至は芸術に親しむ人でありながら、道徳的には無軌道であつたり、学問を軽蔑し、殊に科学を敵視しすぎたりするのは、これまた褒めたことではありません。
品物について考へてみても、物の利用価値といふことはもちろん第一に計算に入れなければなりませんが、あまり実用本位といふことにのみ気を取られ、文化価値を全く閑却したものは、いはゆる殺風景となるのであります。殺風景も忍ぶべき時には忍ぶべきでありませう。しかし、それが常態となることは、結局、人間の退化であり、堕落であります。それなら、品物の文化価値とはどういふ形で現れるかと云へば、さつき云つたとほり、おほむね道徳性、科学性、芸術性の三つの形で現れます。品物の道徳性とはちよつと説明が困難ですが、一番わかりいいのは、つまり、まやかしものでないかといふこと、俗に云ふ、「インチキ性」がないかどうかといふことです。「ちやちな」といふ言葉がありますが、これは一方道徳的な意味もあると同時に、寧ろ、科学性の低い、技術的に幼稚、或は粗雑なものを指すので、やはり、利用価値から云つても問題にならぬことを示してゐます。更に、「ちやちな」ものは、美しいといふ点から落第点がつけられませう。物の美しさは、それが一つの用途をもつものであれば、きつと、その精巧さと比例し、使ひよく丈夫で永持ちのするものなら、形と云ひ艶と云ひ、申分のない美しさを発揮してゐるに違ひありません。才能のある職人の心がそこに籠つてゐるからであります。そして、さういふ品物は、どことなく気品があり、重みがあり、凜然としたところがあります。そこに、更に「美しさ」と一致した「道徳的」価値が生れるのであります。
日本刀のすぐれたところは、たゞ切れ味といふやうなものだけでなく、鉄の鍛へ方の世界無比ともいふべき高度の技術、刀剣としての最上の美的形態、それと刀は武士の魂と云はれるだけの倫理的厳粛さが、あの三尺の白刃の光芒のなかに秘められてゐること、この三要素が渾然として一体となり、欧米人の想像を絶した武器の宝物的典型となつてゐるのであります。「文化」の精髄とはまことにかくの如きものでなければなりません。
[#7字下げ]八[#「八」は中見出し]
近頃はまた、いろいろな団体または機関の名称に、「何々文化協会」とか、「何々団文化部」とかいふものが著しく目立つて来ました。この傾向は、見方によつては、「文化」といふものに対する世間一般の関心が高まつたことを示すものではありませうが、また一方から考へると、「文化」といふ言葉の濫用によつて、「文化」に対する正当な認識を妨げ、ひいては、「文化」そのものの混乱、頽廃を招く結果になりはせぬかと、ひそかに懼れられるのであります。
「文化」といふ言葉には、広い意味と狭い意味とがあることは、これまでの説明で十分諒解し得ると思ひますが、これを混合して使つたり、また使はれてゐる意味を取違へたりすることによつて、今日のやうな現象が生れてゐるのだと思ひます。
先づ第一に、今度文部省教化局に文化施設課といふ一課が設けられました。これはお役所のことですから、十分慎重に名称の詮議が行はれたことと思ひます。それにも拘らず、この文化施設課の所管範囲は、演劇、映画、博物館、図書館等に限られてをり、それ以外の文化施設は、他の部局の所管になつてゐます。
更に、大政翼賛会に文化部があります。これは以前は組織局に属してゐましたが、組織局が実践局と変り、その実践局に、新たに、厚生部が設けられ、従来の文化部の仕事が一部その方に遷されたわけであります。その上、錬成局に思想部といふ部が別にでき、文化部から「思想」に関することはそつちへ移管されたかたちであります。さうすると、文化部には何が残るかと云へば、学術、文学、芸術、それに、さういふ部門を包含する出版、放送といふやうな事業職域関係、図書館、博物館などの文化機関、それと、国民生活の文化面、教養、娯楽、風俗、習慣といふやうな方面の問題だけといふことになるわけです。これで
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