文化とは
――力としての文化 第一話
岸田國士
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[#7字下げ]一[#「一」は中見出し]
「文化」といふ言葉の意味から説明していきませう。
元来この言葉は日本語としてさう古い言葉ではなく、多くの学問上の言葉と同様に、これも西洋の言葉を翻訳して出来たもので、明治の末頃から使はれだした言葉であります。尤も、それ以前に「文化」といふ年号もあり、この熟語が拠つて来たところを吟味すれば、まつたく新しい造語だとは云へますまい。しかし、現在普通に用ひられてゐる「文化」といふ言葉はそれと関係はなささうに思はれます。
原語はドイツ語のクルトゥア、フランス語のキュルチュール、英語のカルチュアと、それぞれ同じラテン語の系統をひいた言葉でありますが、さういふ詮議は、いまは必要ありますまい。たゞ、言葉によつて現された概念としては西洋からはひつて来たものだけれども、その実体は決して西洋にのみあつて日本にないものではないといふことをこゝではつきりさせておかなければなりません。つまり、西洋には西洋の「文化」があり、一口に西洋文化と云つても、それぞれの国に固有なものと、多少相通じるものとがあるやうに、同じ東洋のなかでも、特に日本には日本固有の「文化」があるのであつて、たゞ、日本では、西洋で考へるやうに、ひとつの特別な概念として、それを昔から一定の言葉であらはしてゐなかつたといふだけであります。
さういふ例は、ほかにいくらでもあります。
さて、それなら、「文化」といふ言葉をわれわれはどう解釈したらよろしいか。これも、参考のために西洋の原語についてしらべてみると、これはラテン語の「耕す」とか「栽培する」とかいふ意味の言葉から出てゐるので、つまり、人間の生活を土壌にたとへ、これを原始の姿から理想の姿に高めるために、あらゆる工夫努力を加へる、その過程を指すのであります。
ところで、その人間生活の理想の姿なるものが、西洋と東洋とでは、根本に於て多少違つたところがある。殊に、わが日本は、肇国以来、厳然と定まつた国家としての大理想があります。国民のすべては、その全人格と全生活とをあげて、この大理想に向つて邁進しなければなりません。そこには、個人々々の生活の理想といふやうなものを遥かに超えた、いはゆる八紘一宇の生活の理想があります。日本の文化は、即ちこの精神に根ざし、この精神を活かし、更にこの精神を大きく伸ばして行く全国民の信念と情熱と叡智とから成り立つのであります。
一方、西洋の近代文化は、「文明」といふ別の名で世界を風靡しました。この「文明」といふ言葉は、意味の上では、「文化」よりもやゝ具体性をもつてゐて、かの野蛮とか未開とかいふ言葉の反対を指すのでありますが、実際は、科学の発達を極度に伴ふものであつた結果、それは、文字通り機械文明と云はるべきものであります。しかも、その「文明」の目標とするところは、概ね個人の幸福を基礎とする社会生活の円滑化にあつたと云へるのでありまして、かゝる理想は、理想そのもののうちに矛盾を含み、結局は、自由競争の名の下に、世界を動乱に導くことになつたのであります。人間の欲望にはきりがないといふことと、表面は便利で楽しさうに思はれる生活も、その裏をのぞくと、見るに忍びないやうな醜い、痛ましい光景がくりひろげられてゐるといふ事実とによつて、人類の進歩はおろか、むしろ、人間が物質の奴隷になつてゐる状態が誰の眼にもはつきりして来たのであります。
もともと、「文明」とはさういふものではない筈です。文明国と云へば少くとも進歩した国家としてのあらゆる条件を具へ、その道徳も法律も風習も高い人間的価値を標準として世界に通じるものをもつてゐる国でなければなりません。真の文明は、いはゞ、「文化」の技術的なあらはれとも云へるのでありますが、今申すとほり、西洋文明の今日までのすがたは、形を整へるに急で、その精神がお留守になつてゐたといふよりほかありません。それといふのも、その精神が確乎たる民族の歴史の上に築かれてゐなかつたからで、徒らに、宙に浮いた、人類の理想とか進歩とかいふお題目に捉はれながら、その実、個人の欲望を満たすことにのみ汲々としてゐた結果であります。
わが国に於ても、明治維新この方、久しい鎖国の方針を改め外国の文物をどしどし取入れることにしたのでありますが、これは畏れ多くも、明治大帝の聖慮により、広く知識を世界に求めようとする朝野の一致せる努力でありました。その当時、旧弊固陋に対する旗印として「文明開化」といふ言葉が流行しました。日本はもともと野蛮国でも未開国でもないのは勿論ですが、なにしろ、西洋文明の長を取り、急速に制度や風俗の改革を行はうといふのでありますから、勢ひ、新しきものはすべてよしとし、旧きものはすべて棄て去らうといふ極端な傾向が生じ、そのためには、西洋風でありさへすれば「文明開化」の商標をはることになつたのです。しかも、模倣は往々不十分な理解のもとに行はれがちであります。従つて、その頃の識者は、西洋文明の阻むべからざるを覚りつゝも、なほかつ同胞の軽薄な西洋崇拝を「文明開化の猿芝居」と嘲笑したくらゐであります。
「文化」といふ哲学上の言葉は、それよりずつと後れて日本では使はれだしたやうであります。こゝでもう一度この言葉の意味をはつきりさせておけば、「文化」とは決して、前に述べた「文明開化」の四字を二字につゞめた言葉ではなく、ドイツなどでは、文化は本来「精神文化」であつて、「物質文明」に対するものであるといふ解釈さへ行はれてゐます。しかし、これは、ドイツのある学者の説であつて、一般には、さうとは限りますまい。フランスなどでは、むしろ、文化といふ言葉の代りに、文明(シヴィリザシヨン)といふ言葉を使つてゐるくらゐであります。
それはさうと「文化」の定義でありますが、これを哲学的に考へると、いろいろむづかしい言ひ方をしなければなりませんが、なるべく平易な言葉を使へば、「人間の一切の精神力の開発と、その調和的な発達」と云つてもよく、また、「人間がその理想を追求するために工夫努力する一切の生活表現」と云つてもよろしいのであります。以上は広い意味の「文化」でありまして、政治も経済も、軍事も外交も、教育も宗教も、その他、日常生活のすべての内容がこれに含まれるのであります。ところで、狭い意味の文化といふことになると、人間の精神力が最も純粋な形で高度に発揮された技術的な「働き」、「営み」を指すのであつて、これは大体、学術、芸術、道徳、及び宗教の四つを内容とし、これが個々に在るのではなく、統一されたかたちで一つの価値を作るところに、文化の本質があるといふ風にみるのであります。
学問的な説明はこれくらゐにして、ごく一般に使はれる言葉として、「文化」の意味をくだいて云へば、「国民としての理想を達成するために、われわれが絶えず伝統の上に、更に豊かに築きあげて行く生活全体の心構へと方法」なのであります。
こゝで云ふ「生活」とは、もちろん、物心両面の生活です。衣食住を物質生活の面とすれば、知情意の働きが精神生活の面です。考へ、学び、信じ、愛し、戦ひ、苦しみ、敬ひ、美を感じ、これら「心の生活」、これは抑も人間の最も人間らしい姿の現れですが、こゝにまた人間の最も貴重な力がひそんでゐるのであります。科学も芸術も道徳も宗教も、この「心の生活」を豊かにし、力づけ、磨き清めるためのものであり、また、逆に云へば、豊かな、力強い、清澄な精神生活から、深い学問も、すぐれた芸術も、高い道徳も、あらたかな宗教も生れて来るのです。
更にまた、この「心の生活」こそ、「物質生活」の原動力となり、これに秩序と品位とを与へるものであります。なぜなら、仮りに食事を例にとつてみても、人間はたゞ与へられたものをむしやむしや食べるだけではない。そこには栄養を基準にした材料の選択並びに調理といふ頭の働きと「技術」が必要であつて、それはもう精神活動の領域であります。その上、十分の咀嚼とか、「腹八分」でやめておくといふやうな習慣もつけなければならず、次に、食膳に向ふ時の礼儀作法、そのうちには、満足に食を与へられるものの感謝が籠められてゐる筈です。
かう考へて来ると、食生活といふ問題だけでも、それは精神生活と別々に行はれるものとは決して云ひ難いのであります。
諸外国を旅行して、いろんな人間のいろんな食事のしかたを見れば、もうそれだけで、その国の「文化」の一面を判断することができると云つても過言ではありません。料理のうまいまづいは先づ別として、また、貧富の程度による皿数の多少も問題外とします。たゞ、食事に対する観念、食器の種類、献立の巧拙、飲み食ひする一座の雰囲気などで、その人々の文化的水準乃至特徴といふものが如何に露はに示されるか、これは私自身、屡々経験したところであります。
[#7字下げ]二[#「二」は中見出し]
こゝで「精神と技術」の問題に触れておきます。「精神」といふ言葉は、古来甚だ多く用ひられてゐますけれども、それがたゞ漠然と「こゝろ」といふ意味に使はれてゐる場合もありますし、また、可なりしばしば、「道徳」とか「意志」とか「頭脳」とか「思想」とかいふ限られた意味に使はれてゐる場合があるのです。更に、どうかすると、「気もち」や「量見」や「根性」といふ代りに、「精神」といふ言ひ方をするものがあります。
一時、国民精神総動員といふ言葉が公に用ひられましたが、これは主として、倫理的な意味をもつてゐたやうです。私は、これに対して、国民の「精神的動員」を主張し、これは、単に倫理的な面ばかりでなく、科学的な面でも、芸術的な面でも、苟くも、日本国民の「心」、即ち「知情意」を含めての全能力を動員すべしと云つたことがありますが、これは、言ひ換へれば、「文化総動員」を指すのであります。
それはさうと、「精神一到何事か成らざらん」などといふ言葉も、どうかすると精神を意志の意味に解し易いのではないかと思ひます。
一時また、精神主義といふ言葉が流行しました。昔、精神家と云つた、あれに類する言葉でありませうが、一種の揶揄を含んだ語感があり、これに対して、功利主義、技術万能主義が挙げられるでせう。例へば物の面、形の面を軽んじ、なんでも精神だけで解決しようとするのが精神主義だとすれば、現実に足をとられて、目先の利害処理にあくせくするのは甚だしい非精神主義に外なりません。
こゝで、精神と技術といふ問題が起つて来る。この二つは、元来、対立すべき性質のものではないに拘らず、事実は、精神のみあつて技術これに伴はず、技術のみ尊重されて精神が忘れられるといふ現象が往々いろいろな方面でみられるのです。この場合の精神とは、早く云へば、「魂」のことで、現実の世界に於て、それだけではなんの力もない代り、また、それがなければ、すべてが気の抜けたものになるといふ、極めて微妙でかつ厳粛なものであります。
人間の行為といふ行為、言葉といふ言葉、みなこの「魂」の入れ方で値打が違つて来るのであります。政治、経済、外交、軍事、教育、いづれも一国の消長に関する専門技術でありますけれども、これまた、文学や芸術、さては宗教の類と同じく、立派な魂がはひつてゐなかつたら、いくら体裁ばかり整つてゐても、ほんたうの力にはならないのです。
私の眼前に台ランプが置いてあります。場所は何処でもいゝ、例の下手《げて》もの趣味の舶来模造品です。これだけを取りたてゝ悪く云ふには当りませんが、生憎、私の云はうとすることが、こゝに語られてゐます。技術としては相当手の込んだものです。「時代」をつけた蝋燭立もいゝが、しかしこの安手な感じはどこから来るのでせう。粗製濫造も品
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