物によりけりで、この安つぽさは、これを作つた人間の、身のほどを弁へぬ思ひ上りから来るのです。美を生み出す魂をもたずして、美術品に見えるやうなものを作らうとする粗野な振舞ひから来るのであります。
日本の国力が、従来他の部門に比して、軍事に於て特に優秀であつたのは、国軍建設の途上に於て、精神の重要性を片時も忘れなかつたからです。が、今日では、この精神に相応する技術、即ち、兵力の機械化に一層意を用ひなければならなくなりました。
国民の力は、こゝで、新たな面への発展を強ひられてゐるのであります。
次に、技術といふ言葉も亦、非常に広い範囲に亘つて使はれてゐます。物理や化学の応用による工学的な技術もあり、人文科学の領域に於ける調査研究の技術もあり、更に法律の運用、事業経営の技術、大にしては国政の処理、小にしては帳簿の整理まで、これを技術と呼んで呼べないものはありません。
また、一方、小説を作る技術とか、画をかく技術とか、自動車を運転する技術とか、将棋をさす技術とかいふのもあります。同時に、子供を育てる技術、米をうまく炊く技術から、借金取りを追払ふ技術などといふのまであります。
要するに、人間の知識と経験とによつて、最も合理的に仕組んだ行為達成の手段を技術といふのでせうけれども、この技術は、単に知識と経験とによつて、完全にその目的を達するものではありません。それは前にも云つたやうに、魂、即ち精神の入れ方によつて、その技術は生き、または死ぬといつてもいゝのです。
日本人は、由来、技術に魂を打ち込むといふことが如何に大切であるかを知つてゐました。ところがすべての技術に対して、これを純粋に知識化することが不得手であり、経験のみを土台として、多くは感覚的に技術の薀奥を究めようとしました。従つて、技術は常に個人の発見であり、門外不出の秘伝でもあつて、これが普及といふことは思ひも及ばぬことだつたのであります。そこから、一般の日本人は、技術といふものをたゞ後生大事に守ることのみを考へ、これに更に自分の工夫を加へるといふことをしませんでした。技術は磨かれ深まつては行きましたが、豊富にも大がかりにもならなかつたのです。
ある人は、西洋の文化を技術文化と呼び、明治以来、日本は西洋からこの種の文化を移入したのだと云つてゐますが、なるほど、さういふ意味では、たしかに西洋人は日本人に「新しい技術」の数々を教へ、われわれにはじめて近代文明の洗礼を授けたのでありますが、しかし、日本の技術は、果して、西洋のそれに劣つてゐたでせうか。
この比較は、甚だ困難ですけれども、是非、一応はしておかねばなりません。なぜなら、文化とは「生活技術」なりといふ言葉まであるくらゐで、日本文化の優秀性に関する問題だからであります。
第一に、技術の生れたところ必ず自然との関係があります。第二に、技術の伸びるところ必ず、人間の生活条件がこれに結びつくのです。日本人の自然観は、その技術を極度に自然の形態に近づかしめてゐるのに反し、西洋人の技術は、寧ろ、自然の法則を逆にとつて、自然を圧倒することに終始してゐます。それに加へて、日本の地理的条件、及び、政治的事情は、わが国民をして「人間とは何ぞや」といふ問題についてさほど悩ましめなかつた。人間の本性と能力とが、人間をして如何なる生活革新をも行はしめるのだといふ、自信と希望とを持つに至らなかつた国民とは、誠に不思議な国民であります。
日本の技術は、それゆゑ、魂、即ち精神の籠つたものではありますが、西洋のそれの如く、人間臭芬々たるものは少く、却つて、人間離れのしたやうなものが多い。枯淡の境地が生れる所以であります。
言葉も亦ひとつの技術でありますが、西洋の言葉と日本の言葉とを比べてみると、まつたくその発達のしかたが違つてゐます。日本の言葉くらゐ、直接に思想感情を現さないやうにできてゐる言葉はありません。言葉に生々《なま/\》しさといふものがなく、余韻が深く、それだけに、不用意に使ふと誤解され易い言葉であります。言葉の質の高さはたしかにフランス語などに劣るものではありませんが、惜しいことに、あんまりむづかしすぎます。今のまゝでは超国境性に乏しい。特殊な時代に、特殊な環境の下に使はれる言葉としては、非常に高級な言葉なのです。
かういふ風に、「精神と技術」の問題を考へてみても、「文化」の高さといふものが、その二つの結びつき方によつてきまるとも云へます。「精神文化」と云ひ「技術文化」と云ひ、それは研究の対象として一つの角度を示すに過ぎず、文化の本質的価値は、この二つの角度からそれぞれ実体を見究めたうへ、更に、この二つの面の結びつき方に十分の注意を払はなければ、決して正確に測り知ることはできません。
[#7字下げ]三[#「三」は中見出し]
これで大体「文化」といふ言葉の解釈は尽きたやうです。
近頃、この言葉はあちこちでやゝ乱雑に使はれてゐますから、よほど注意しないと、なんのことかわからない場合があります。
それをこゝで少し拾つて、説明のつくものは説明をしておきませう。
先づ近頃「新体制」といふことが云はれてをります。云はれるばかりではない。着々、実現してゐるのでありますが、これは国家機構のすべてに亘つて、国防上必要な、従つて永久にわが国土と国民生活を揺ぎなきものとするための新しい改革を行ふことでありますが、これを政治と経済と文化の三つの面から考へて、それぞれ、新体制の機構を作つてゆかうとしてゐるのであります。
そこで、政治と経済の機構については、例へば政治は、政党が解消して新たに翼政会といふ単一政事結社が出来、行政官庁の整理改廃等が行はれ、経済界は経済界で、重要産業に関する統制会が出来るとか、中小商工業の転業問題に手をつけるとか、いろいろの動きがあります。そしてその範囲もわりにはつきりしてゐるのですが、文化機構といふことになりますと、どうもその範囲が茫漠としてゐて、なかなか纏りがわるいのです。ごく大ざつぱに云へば、さつき「文化」の内容として挙げた、学問、芸術、道徳、宗教に関する職域でありませうが、それだけでは具体的に、文化職域といふものを網羅できません。それで、一応、職域或は職能といふ立場から、文化部門と考へられるものを列挙してみると、次の通りです。
学術部門
[#ここから1字下げ]
自然科学者、人文科学者
[#ここで字下げ終わり]
芸術部門
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文芸家、美術家、音楽家、舞踊家、演劇人、映画関係者、芸道家
[#ここで字下げ終わり]
教育部門
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大学専門学校教師、中等学校教員、国民学校教員、特殊技術学校教師、特殊学校教師(聾唖学校等)、職業技術教師、保姆、其他社会教育関係者
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言論部門
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評論家(思想、芸術、社会等)
[#ここで字下げ終わり]
宗教部門
[#ここから1字下げ]
神道教師、僧侶、牧師
[#ここで字下げ終わり]
公務・法務
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官吏、公吏、陸海軍人、公共団体職員、法務従事者
[#ここで字下げ終わり]
出版・報道部門
[#ここから1字下げ]
出版者、新聞記者、編輯者、放送局員
[#ここで字下げ終わり]
厚生部門
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厚生事業関係者、労務管理者、医師、歯科医、獣医、薬剤師、其他医療関係者(産婆、看護婦等)、武道教師、体育関係者
[#ここで字下げ終わり]
技術部門
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農林・水産技術者、鉱業技術者、工業技術者、交通運輸技術者、通信技術者、情報宣伝技術者、商業技術者、金融・保険技術者、生活補助技術者(料理人、理髪師、美容師等)、其他ノ技術者
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娯楽部門
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映画・演劇関係者、大衆演芸家、室内競技関係者
[#ここで字下げ終わり]
右は厳密な調査を経たものではありませんし、なかには純然たる文化職域とは云へないもの、つまり、商工業として経済職域に跨つてゐるものなどもありますが、職業の性質上、「物」を対象としない、或は「物」を対象としても、その「物」の取扱ひ方が、国民生活の経済的な面よりも寧ろ文化的な面に大きな関係をもつ職業は、ひとまづこゝにかゝげてみたのであります。
例へば理髪業のやうなものは、商業と見做され、商業報国会といふ新しい組織のなかに加へられてゐますが、これは元来、「物」の売買をしてゐるのでないことは勿論、「物」を作るのでもなく、若し、頭髪に「加工」するとすれば、これは人間の身体の一部ですから、整形外科の医師の仕事に近いわけであります。医師は立派に文化的職域に属してゐるのですから、衛生上の必要からと外容を整へる目的とで成り立つ理髪業も、それに準じて少しも可笑しくはないのです。
そこで、文化新体制とはどういふことをいふのかといへば、これらあらゆる職域の者が、自分の利益のみを追はず、国家目的に最も適つた仕事ぶりをするやうに心構へを改め、かつ、さういふ風に仕事ができる完全な組織を作り、一歩進んで、国民全体の「文化」を向上させるために、それぞれの立場で全力を尽すやうな姿勢を整へることであります。
[#7字下げ]四[#「四」は中見出し]
国民生活を「文化」の現れとしてみる時、国家の理想を基礎とし、正しい伝統の精神を根深く宿したものであることを前提として、私はなほ三つの面からこれをみなければならぬと思ひます。第一に、「能率」があがつてゐるかどうか? 第二に、心身ともに「健康」であるかどうか? 第三に、「品位」を保つてゐるかどうか?
能率をあげるためには、仕事を含む個人または集団の生活が先づ規律正しくなければなりません。仕事のしかた、生活のしかたが上手でなければなりません。これには技術の工夫錬磨が必要です。無駄を省き、計画的に労力と時間を使ひ、順序を正確に踏まなければなりません。適度の休養も取らなければなりません。明朗な気持を持ち続けることも大切です。
身体の健康は、平時に於ても等閑に附してはなりませんが、特に戦ふ国民として是非とも最高度に保たなければなりません。
それがためには、病気にかゝらぬ衛生上の注意以外栄養の摂取と適度の鍛錬が必要です。第一に、われわれ日本人は、もつと「健康のよろこび」についてはつきりした自覚をもたなければなりません。からだが丈夫でないことを望むものはゐない筈ですが、さうかと云つて、ほんたうに「健康」といふことを楽しい仕合せなことだといふことを身にしみて感じ、健康の上にも健康を願つてゐるものがいくたりありませう。これはつまり、国民の「健康観」といふものがしつかりできてゐない証拠で、これでは国民の体力を十分に引きあげることはできません。
従来、肉体的健康といふことは、どうかすると精神的な能力と比例しがたいやうな、俗な考へ方が世間に可なりひろがつてゐて、才子多病といふ言葉さへあるくらゐですが、これはつまり、久しい間、「文化」のかくあるべき姿を見失つた時代がつゞいたからであります。
しかし一方、健康な精神は健康な身体に宿るといふ訓へもあるとほり、逞しい精神力、殊に、頭脳と意志と感情との円満な発達と、その旺盛な活動は、どうしても、肉体が健康であることを条件としなければなりません。
それはさうと、肉体的健康は、自分にもおよそどの程度かといふことがわかり、医師の診断に従ひ、或は相当な指導者について、体質の向上、筋骨の錬磨ができますけれども、精神の健康といふことについては、第一、自分ではなんとしても正確な判断がつきかねるばかりでなく、どうかすると、人によつて見るところがまちまちであります。
現在の日本にとつて、最も重要なことは、国民の「精神的健康」を取戻すことだと思ひます。日本の国内の情勢を通じて、挙国一致、総力結集の実を挙げるために、若しいくぶんでも障碍になるものがあるとすれば、それは外でもない、古代の日本民族が世界の何れの民族よりも豊かにもつてゐた、あの健康なものの考へ方、ものの感じ方、そして
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