、あの健康な意志の力をおびたゞしく喪失してゐることであります。
この点については、後の章で詳しく述べる機会があるでせう。
さて、第三には、品位を保つといふことですが、これは「文化」の現れとして特に、国家の威信に関する極めて深刻な問題であります。
そもそも人間の品位とは、これを気品と云つてもいゝのですが、一言にしては云ひ尽しがたい複雑微妙な要素から成つてゐるものです。強ひて云つてみれば、その人のどこかに高貴な匂ひがひそんでゐて、自然な態度のなかに犯し難い力と親しみとが感じられることなのであります。高貴なといふのは、必ずしも身分の高いことや、学識の豊かなことを指すのではありません。それはもつと素朴な精神の純粋な姿にもみられるものでありまして、例へば、「神様のやうに」正直な人と云へば、その人は、正直といふ点で、既に、相手にすばらしく「高貴なもの」を感じさせたことになり、それは一つの品位としてその人の身についたものです。ある場合、「神様」などといふ言葉は不用意に使はれることもありますが、とにかく、頭の下がるやうな、ほかの見かけはどうあらうと、決して馬鹿にはできぬといふ、一種の畏敬信頼の念が湧くことを告白したものでありますから、さういふ印象を人に与へ得る人物は、風体や社会的地位や教育のあるなしは問題でなく、無意識にでも自ら恃むところがあるためにこそ、おのづからな品位を備へたと云ひ得るのであります。万一、これが正直を衒ひ、少しでもそれを売物にするやうな人物であつたならば、決して、「神様のやうに」といふ形容は用ひられますまい。正直は正直として一応は感心できても、そこになんとなくわざとらしいもの、けち臭いものがあれば、それは、その人の品位を高めることにはなりません。これが、云ふに云はれぬ品位なるものの性質であります。
真の「文化」と「似而非文化」との区別は、なにを例にとつても、この「品位」のあるなしで分れるのでありますが、国民の一人々々が、真の文化を身につけてゐたならば、おのづから、その言動、風貌にそれが滲みでて来ます。大東亜の指導民族を以て任ずるわれわれ日本人は、武道に於ても古来重んぜられたこの「品位」なるものを、社会万般の活動を通じて、益々発揮しなければ、将来異民族の信望をかち得ることは断じてできないのであります。
この意味に於て、日本人の品位は、先づ第一に、日本人たるの矜りを、口の先や、単なる身構へだけでなく、心の底の底から持ち得たかどうかといふことにかかつてゐると云へませう。
それからまた、人間の品位は、さつきも云つたとほり、素朴な精神の純粋な姿のなかにもありますが、同時に、ほんたうに洗煉された作法、熟達した技術を通じても示されるのであります。
茶道の形式がこれを証明し、また、巨匠名人と云はれる人々の風格を見てもわかると思ひますが、それよりも、われわれの身近なごく平凡な人物が、それでも自分のやゝ得意とする仕事に没頭してゐる時の、あの緊張した、しかも落ついた満足げなすがたのうちに、どうかすると、その人の平生には見られない、一種気品の閃きとも云ふべきものを発見することがあります。危なげのない、調和のとれた、澄みきつた、美しい姿なのであります。
私はまた、都会の、技巧をこらし、見栄をはつた生活と、さういふ生活をしてゐる人々よりも、農村あたりの、代々の仕来りを守つた、がつちりと地についた、目立たない生活と、さういふ生活を営む人々の方に、寧ろより多く「品位」といふやうなものを感じることがあります。何れにしても「品位」は附焼刃でないことだけはたしかであります。
[#7字下げ]五[#「五」は中見出し]
さて、こゝで私は、「品位」を最も傷つける「卑俗さ」といふことについて一言しなければならなくなりました。
「卑俗さ」といふことは、読んで字の如く、「卑しく俗つぽい」ことで、もちろん、「高貴な」精神と相容れないものです。しかし、「高貴な」と云つても、それぞれ程度があり、その現れ方もいろいろでありますから、一般の水準を示すことは容易でありません。とにかく、人間として、どんな場合でも保たなければならぬ「品位」といふものがあると、私は信じるのですが、その「品位」を傷つけ、心あるものの顰蹙を買ふやうな調子が、若し、その人間の無意識の言動のうちに認められ、しかも当人は却つて、さういふ調子に満足を感じてゐるかの如くみえたならば、それは、きつと、何時の間にか「卑俗な」趣味に捉はれ、または、「卑俗な」精神に蝕まれてゐる証拠であります。
「卑俗さ」は必ずしも、「粗野」と一致はしません。従つて、一見巧緻を極めた技術的表現のなかに、往々、「卑俗さ」の限りを尽したといふやうなものがみられるのです。都会の風俗や、芸術の名を冠した様々の作品にその例が多いことでもわかります。
「卑俗さ」はまた、自ら高きを以て任じる指導的言論のなかに、却つて誇らかな調子でそれが示されてゐることがあります。そこには、共通の、思想の貧しさが認められますが、その傾向の主な原因は、真の理想を夢みる能力を欠いた、性急な打算と手軽な効果とをねらふ功利主義、便宜主義であります。
従つて、本来、尊厳なるべき道徳の問題に於てすら、その道徳を標榜し、鼓吹する精神のうちに唾棄すべき「卑俗さ」を含むといふ大きな矛盾が、どうかすると平然と通用してゐることがあります。この「卑俗さ」は単に功利主義、便宜主義から生れるばかりでなく、多くは、見えすいた誇張、若しくは、われ知らず陥る自己欺瞞を伴ひ、低調な道徳観の、身のほどを弁へぬ思ひあがりを特色とするものです。
なるほど、一応、「道徳」を尊重するといふ身構へに於て、それは「道徳的」と云つて云へないことはありますまいが、しかし、そこに大きな問題があるのでありまして、例へば犠牲的行為といふやうなものでも、自らさう信じてゐるにせよ、若し仮りに、他の一面に於て、その行為が、何等かの報酬をひそかに期待したことが明らかであつたとしたら、これを犠牲的行為と名づけることすら憚りありとするのが「道徳」であり、逆に、これを強ひて犠牲的行為とみなし、少くとも、敢て「美談」として吹聴するやうな精神は、「不道徳」とは云へないまでも、頗る低い道徳意識だとしなければなりますまい。
かゝる道徳観、道徳意識によつて導かれたあらゆる行為、あらゆる事業は、常に、その表現の空疎で月並な感激調と共に、最も「卑俗な」臭気をあたりに撒きちらします。ところが、かういふ臭気は世間にひろがり易く、多くの人々はそれに馴らされて、しまひにはそれを「道徳の臭ひ」だと思ひ込むやうになります。営利主義が「道徳」と結ぶのは、この虚に乗ずるよりほかはありません。
政治も亦、国民大衆を導く便法として、屡々この種の「卑俗さ」を利用したといふ風にも見えますが、実は、政治そのものの陥つた「卑俗さ」が、期せずして「俗衆」のみを対象とせざるを得なかつたのが従来の傾向であります。
思ふに、この「卑俗さ」は、単に道徳的な面だけでなく、一般に、綜合的な意味で、例外なく、「文化感覚」の鈍さ、乏しさを示してゐるのでありまして、すべての物象を通じて「卑俗さ」の主たる原因となるものは、恐らく、この「文化感覚」の幼稚、貧困、乃至は磨滅でありませう。
さて、この「文化感覚」でありますが、これは不思議なことに、現代日本に於ては、教育の程度や、社会的地位の高下とは聊かも関係がないのであります。山間の陋屋に住む無学な一農村青年が、堂々たる名士の講演を聴いて、趣旨はよくわかり、少しも異存はないが、どうもあの調子や言葉使ひが妙に気になると、首をひねつてゐるのです。聴いてゐる方で恥しくなるとも云ふのです。なぜかと問へば、正確な返答はできません。しかし、あゝいふことを云ふなら、あゝでなく云つてほしいといふ気持です。これはもう立派な「文化感覚」です。つまり、講演者の「文化的教養」を正確に評価する勘がそこにみられます。多分、紋切型の演説口調と、言葉の濫用による示威的な表現から一種の「卑俗さ」を嗅ぎつけ、これは意外だと思つたのでせう。
道徳的な低さは、道徳的でない、或は道徳がないこととは少し違ひます。これも詳しく話さなければなりませんが、問題が少しわきへ外れますから、こゝでは触れないことにして、更に、道徳的な低さと並んで、「卑俗さ」の原因となるものに、芸術的な低さがあります。これも厳密に云へば、芸術的でない、或は、芸術がない、といふこととは違ふので、芸術の要素はあるのだけれども、それが程度として低いことを指すのであります。つまり、美を目指して、美の最下部、即ち、マイナスの領分に安住してゐることです。わかり易い例は、無用の装飾がその一つであります。更に、醜い細工がさうです。世間はこれを案外歓迎するものと見えて、商品の大多数はこの手のものと云つて差支へありません。少し凝つた住宅や、旅館、料理店などにこの例がなかなか多く、婦人の衣裳は大部分さうだと云つてもいゝくらゐです。芸術家と称せられる専門家の作品にさへ、たまたま、売らん哉の似而非芸術品があることももちろんであります。
これは、「美意識」の低さによる「卑俗な」風俗の横行でありますが、同様に、「科学的」幼稚さから生れる「卑俗な」習慣といふものも考へられます。迷信の如きがそれであります。
しかし、かういふ風に、道徳、芸術、科学と三つの角度から「卑俗さ」の本質をしらべてみましたが、これは強ひて分ける必要もなく、また、それは可なり無理なことでもあるに拘らず、一応解りやすいやうに、分析を試みたに過ぎません。それゆゑ、これだけではまだ、「卑俗さ」の本体をつかむわけには行きません。
「卑俗さ」といふことは、言葉どほり、卑しむべきものであるに拘らず、それが世間普通のことになつてゐるといふ状態から、そもそも研究してかゝらなければなりますまい。
「世俗」とか「俗世間」とかいふ言葉があります。世間即ち「俗」といふことになりますが、これは、もともと「出家」したものに対して世間の普通の人を「俗人」と云つたのを、転じて「凡庸」の意に用ひ、更に、卑しく品のないことを指すに至つたのです。殊に、「卑俗」、「俗つぽさ」となると、これはもう、「俗の俗なるもの」を指すことになります。それなら、その世間の「俗つぽさ」は何処から来るかと云へば、私に云はせると、やはり、久しきに亘る理想なき政治と、功利的な教育から来るのだと思ひます。いちいち例を挙げることを控へますが、実際、今日、屡々公の名に於てなされる事業や、その宣伝までが、「俗つぽい」なにものかを感じさせることを、私はひそかに憂へてゐるものです。日本の姿は決してさういふものであつてはならないと思ふからです。
「卑俗さ」の危険は、さういふわけで、世間一般が、それを普通当り前のこととして見過してゐるところにあります。一方で「卑俗」ならざるものを、「高尚」なりとするところから、それはもう、特別な人間の、或は特別な社会の、一種近づき難い領域であつて、さういふものは、当節、世間相手の仕事になんら役に立たぬといふ風な常識が通用してゐるかに見えます。従つて、「高尚」とか「上品」とかいふことは、聊か実質を遠ざかつた装飾のやうにも考へられ、言葉の悪い意味に於ける貴族趣味を代表するやうな、一種取澄した滑稽な表情をすら連想させるものとなつたのです。
「雅俗」といふ熟語なども、「雅《みや》び」に対して「俗」と云へば、それだけでは、別に「卑しさ」をまで意味しないのではないかと思ひます。なぜなら、「雅び」そのものが、繊弱華美を誇る限り、決して尊重されるべきものではないからです。しかし、「高雅」に対する「卑俗」といふことになれば、そこには、はつきりした価値の対立がみられます。なぜなら、「雄渾高雅」の趣きは、日本の国風を象徴する理想のすがたであると、私は信じるからであります。
そこで、再び、「俗つぽさ」の問題に帰りますが、この世間に通用してゐる「卑俗さ」の正体は、たしかに、前にも述べたとほり、理想なき政治と、功利的な
前へ
次へ
全5ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング