訳(誰のだつたか忘れたが)を読んで、当時多くの人々と共に少からず感心し、なるほど、近代劇の巨匠と云はれる筈だ、これは天才に違ひないとひとり大いに悦に入つてゐたところが、間もなく同じ作者の同じ作品を、仏語訳で読み返して見て、殆ど別なものであると云ふ感じを受けた。邦訳は、無論そんなに悪いものではないと思つてゐたにも拘はらず、仏訳を読んだ時の、あの感動は、実に名状し難きほどのものであつた。これはまた、とても素敵なものだ。どうしてどうして、邦訳で読んだ時のイプセンは、いはば、餡をさらつた饅頭のやうなものであることがわかつた。翻訳劇といふものは、さては中味のない饅頭だな、うつかりしてゐてはいけない、と私は思つた。
 それから私は、チエホフ、ストリンドベリイ、ゴオルキイなどを仏訳で読み始めた。悲しいかな、仏訳とても既に翻訳である以上、原作の妙味はどれだけ失はれてゐるかわからない。さう思ふと、露西亜語もやりたくなる。スカンヂナヴィヤの言葉も覚えたくなる。私にはそれだけの根気はなかつたが、兎に角、日本語に訳された欧羅巴の戯曲は、同じ訳語でも、欧羅巴の一国語に翻訳されたものに比べて見ると、雲泥の差がその
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