なり得るのである。舞台の上で読む「手紙」さへも、この心掛けで書かなければならない。
今まで、主として、写実的な場面について論じたやうな形になつたが、もともとこの写実といふことが、既に現実の複写ではないのであるから、現実整理の筆を更に現実修正の域に押し進めることは、作者の趣味、才能によつて如何なる程度までも許さるべきである。現実修正は更に現実変形、現実拡大、現実様式化に押し進めることもできる訳である。ただその根柢に、その核心に、飽くまでも実人生の姿が潜められてゐなければならないことは、文芸の本質から云つて当然なことである。これはもう、「表現」以前の問題である。制作過程の出発点である。従来わが国に紹介せられた外国劇が、日本現代劇を本質的に発達させ得なかつた理由として、その翻訳が単に劇の思想|乃至《ないし》形式のみを伝へるに止まつて、真の「劇的美」を形造る一要素、即ち「文体のもつ戯曲的魅力」を等閑に附してゐたといふ一事を前章にも一寸述べておいたのであるが、これはもう一度繰返して云ふ必要がある。
ここでその翻訳の例を挙げることは容易であるが、自分の経験から云つても、嘗《かつ》てイプセンの邦
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