いから注意力を散漫にする。
 これは単に一例にすぎないが、もつと複雑な心理や、重大な事件を取扱つた場面でも、これに似た表現上の欠陥が、人物の対話を「非舞台的」にしてゐることは事実である。実生活の断片、これほど自然な場面はない筈であるが、同時に多くの場合、これほど非芸術的な場面はないと云つてもいい。殊に現代日本人の生活に於て、この感が愈々《いよいよ》深い。
 舞台の上の巧みな対話、これは、現実の整理によつて初めて得られるものである。一見、こんな気のきいた対話が、この人物に出来る筈はないと思はれるやうな対話が、舞台上では、あたり前の「日常会話」になり、見物を退屈させないやうな「日常の会話」、それが満足に書けて、初めて劇作家は劇を書くことができるのである。人物にある議論をさせる場合、ある述懐をさせる場合、ある説明をさせる場合、ある哀訴をさせる場合、何《いづ》れも、この「呼吸」が必要である。議論そのもの、述懐そのもの、説明そのもの、哀訴そのものが、戯曲の一節として、何も妨げになるものではない。一時排斥された独白さへも、それが立派な「劇的文体」によつて語られる場合には、優れた一つの「劇的場面」と
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