も、新しい思想によってそういう誤った観念を一掃しなければならないけれども、また俳優自身としても、企業家に対してそういう頭を以て臨んではならないと思います。
演劇、映画の企業形態というものは現在いろいろあって一概にはいえませんが、結局演劇乃至映画の企業家と俳優の関係は、全く他に例のない特殊な関係なのです。それが特殊な関係であるということは、今日までいろいろな例でみなさんも御承知と思うが、この間に一つの新しい道徳というものが、ここで作られるのでなければならない。これはみなさんには、そういう問題が今後あるということだけ頭においていただいて、そういう道徳とはこういうものだということについての私の考えは、ここではいわないことにします。
その次は同じ芸術家であり技術家である演出家――演出家と俳優との関係。演出家というのは、いわば音楽の演奏に於けるコンダクターのようなものであると私は思う。しかし、今日の日本の実情に於ては、このコンダクターは、同時に多くの場合、教師をかねているのです。だが、この関係は徐々に変ってくると思う。必ずしも演出家は俳優の先生ではなくなる時代がくると思う。先生ではなくなるが、しかしコンダクターである。このコンダクターと演奏家との関係を考えれば、その演奏が最も完全に行われる為に、コンダクターと演奏家との結び付き方はどういう風でなければならないかということは、素人でもわかります。ただ、演奏家が非常に優れている場合、即ちコンダクターとその演奏家と、芸術的な才能に於ても経験に於ても適わない、同等であるという場合には、この両者の間の関係はどうなるか、そこに一つの一番微妙な関係が生じる。それはどういうことかというと、一つの団体の活動というものにはどうしても指揮者が要る。その指揮者が総てのものの上に立つのではあるけれども、すべてのものよりすべての点で優れている必要はない。指揮をするという技術だけが優れていれば、その他では全く同等であることができるのです。
演出家と俳優との間で、演出という技術に於てその演出家が専門家であれば、その他の点に於て俳優と演出家とは同等であって差支えない。また、そうなり得るものである。事実、そういう例が沢山あります。そういう場合には、俳優と演出家との間では、結局、信頼と友情と意気の投合というものが存立すればよろしい。この演出家と俳優との関係を一律に考えるところに、いろいろ妙な現象が起るのです。例えば、演出家の方からいうと、あの俳優は生意気だというようなこと、或は俳優の方からいうと、あの演出家はちっともこっちのやりたいことをさせてくれないというようなことなど、いろいろ妙ないきさつが起る。演出家と俳優との間には、いろいろな段階がある、いろいろな組合せがある、ということを考えないから、そういうことになるのです。これは実際舞台に立つ場合、或はカメラの前に立つ場合に、そのことを十分考えていなければ愉快な仕事ができません。
作者と俳優との関係についていいますと、俳優のことを西洋ではインタプレートという言葉を使っている。これは普通、通訳という意味に使うのですが、ここでは通訳ではない。作者のいおうとすることを代っていう役という意味です。そういう意味で俳優のことをインタプレートといいます。そうすると、これは作者の代弁者です。作者が自分の作品のなかで、ある人物を創り出す。するとその人物を、一人の俳優が、作者の思いのままに舞台の上で表現してくれる。この俳優と作者との関係というものは、実に密接な関係です。作者にとっては、俳優があって初めて自分の芸術が一般観衆の心に訴えられると同時に、俳優の方からいうと、優れた作者があって初めて自分の才能を引き出して貰えるのです。
昔から、一人の役者が、一人の優れた作者を得た為に一躍自分の名声を高めたという例が沢山あります。日本でも、割に近い例で、この間死んだ市川左団次が、岡本綺堂という作者がいた為に俳優としても非常ないい仕事をすることができました。日本では昔の芝居の因襲から、作者と俳優の関係が二通りに考えられている――即ち座附作者と座附作者でない作者とが考えられている。こういう例は日本以外にないのです。一方に、俳優がこういう役をやりたい、こういう役を書いてくれといえば、その命に従って書くというような作者と、もう一つは、作者が書いたものは俳優は全然自分の意見をそれに加えることができないで唯々諾々とやらねばならない、そういういかめしい作者と、二通りしかありませんけれども、作者というものは元来こんな風にどっちかに偏ったものではないのであって、俳優と作者とは実に演劇の上では一番密接な友達なのです。西洋では、自分のかいた作品を、自分の好きな尊敬する俳優にみせて、その俳優の意見をきいてその作品を修正し、舞台にかけるまでは二人で協力してやる例は度々なのです。今日の日本はそういう状態にまだなっていないようですが、これは作者の方もそういう風につとめなければならないと思う。
今度は同僚の場合です。同僚というものは非常に面倒なものです。同僚であり同時に競争相手です。相手があって初めて芝居ができるのであるけれども、しかし往々にして、相手の為に自分の芸というものが舞台の上で消されて了う。食うとか食われるとかいう言葉が俳優の間で使われるのはその為です。しかし、芸術的な協力というものは、他の部門では、例えば絵や彫刻の場合、或は音楽の作曲とか演奏とか、殊に文学の作品に於ける合作という場合には、二人の間に全く一致した見解と助け合う気持がなければ、できないのですけれども、俳優は往々にしてそうでなく、稽古の時には両方でちゃんと調子を合わせて稽古しながら、いざ舞台に上るというと、相手の芸をなるべく目立せないようにして、自分の芸をなるべく目立たすようにするというような、非常に陰険な卑劣なことが、因襲として今日まで行われているのです。常にそうではないけれども、そういうことが俳優の場合には度々行われる。これは日本ばかりでありません。西洋でもそういうことが度々あります。殊に日本の古い芝居の如きは、その中の主な役をとった役者が、最も舞台の中心になって見物の注意を集めなければならない必要上、必ずしも芸術的な効果という点ばかりでなく、その俳優が自分の権勢慾、名誉慾のために、他の役者を犠牲にするというようなことが、今日もなお行われているようです。これは決して芝居の本当のよさというものを見物にみせることにならないのです。こういうことが行われているということが、実際、俳優というものの社会的品位を非常に落しているのです。
同じ俳優同士でも、その中に先輩、同輩、後輩というものが自ら分れるわけです。先輩、同輩、後輩というものに対する、それぞれの誇りと嗜みというものは、先程いった職業人として表に持っているべき誇りと嗜みということから一歩も外にでない筈だと思います。先輩からはいろいろな指導も受けなければなりません。同僚からはいろいろな相談を受けなければなりません。後輩からはまた、いろいろな刺戟を受けなければなりません。よく俳優が舞台の経験を積めば積む程、或るものを失って行き、舞台の経験の全くない、或は浅い俳優が持っているものによって、同じ舞台の上で自分の演技の魅力をそがれてしまう、というようなことを聞きます。これは芝居の方でも、映画の方でもそういうことがある。経験のあるものが経験のないものより魅力がないということがあるのです。これは経験のある、つまり先輩たる俳優にとっては、実に容易ならんことであって、度々問題になるのですけれども、それについてここでは詳しくは云いませんが、それは先輩たるものが俳優としての修業の積み方に、どこか不完全なところがあったということであります。いいかえると、素人のうちはもっていたいいものを失っているのです。而もそれは俳優として大事なものです。舞台の経験がそれを失わせるのではない。永い俳優生活の惰性が演技を型にはめてしまったのです。こういうことを、後輩の、つまり若い、自分よりも新しい俳優によって、絶えず見せつけられているのです。そこに一つの大きな脅威がある。しかし、それをただ脅威とせず、それによっていい刺戟を受け、自分の中に持っているものが失われないように、常に反省すべきです。
その次は見物です。
見物のことをお客という。お客さんということは、金を払って来るからお客さんでしょうが、お客というようなことを云うのが、そもそも怪しからぬと私は思う。或は贔屓ともいいます。このお客とか贔屓とかいう言葉はどういうことか。俳優は一体何をお客や贔屓に与えているのでありましょうか。もっと広く云えば、俳優は金を払って芝居を見に来る人、映画を見に来る人に、何を与えているのでしょう。与えているもの如何によっては、文字どおりお客でありましょうし、贔屓でありましょう。このお客とか贔屓とかいう言葉が生れたことは、俳優が見物に何を与えているかということを考える場合に、単に商品を与えていたということを告白しているのです。俳優はその演技によって、見物を楽しませているということは、これは事実でしょう。しかし見物に或る楽しみを与えているということだけで満足できましょうか。見物を楽しませるということの意味が、いわゆる見物にサーヴィスするということであったら、その俳優は見物に実にくだらないものしか与えないわけです。そういう俳優のこの卑下の心理が、お客とか贔屓とかいう言葉に現われています。そうではありません。本当の俳優が見物に与えるものは、もっと尊いものです。尊いものを見物に与えるというのは、見物はただ単に俳優の演技の魅力によって自分の心を楽しませて貰うばかりでなく、演劇芸術というものを通じて精神の糧を得ているのです。俳優は公衆から愛されるばかりでなく、人間として芸術家として、それ相当な尊敬を受ける資格があるのです。この尊敬をかち得るのでなければ、俳優の仕事は実に惨めな仕事と云わなければなりません。われわれは友達を持っている。しかしその友達が自分を楽しませてくれる、自分を喜ばしてくれる、ただそういう友達であったならば、その友達は別に有難い友達とは云えないでしょう。その人格に於て、その学識に於て、またその才能とか、友情とかに於て、真に尊敬に価する友達であって初めて心を許すことができるのです。芸術家もそうであります。ただ楽しませるだけの芸術家は、芸術家という名に値しない。そういう商売は、他にそれぞれ名称を与えられております。
ここで芸人と芸術家の区別がはっきり分れるわけです。見物こそはあなたがたの全生命の支えであり、公平な審判者であり、罪のない信者であります。
もう一つ批評家があります。俳優や作家、つまりものを作り出すものと、その作ったものを批評するものとの関係は、また一つの面白い問題でありますけれども、それはここでは略しましょう。
職業人としての誇りと嗜みというなかで最後に云いたいことは、俳優のいわゆるスター心理というものです。俳優が少し有名になって、いわゆる贔屓がついて来たというような気持になって来る。ファンから手紙がくる。企業家が御機嫌をとるようになる。こうなると、人間の常として、いわゆる偉くなったような気持がする。偉くなったら、偉くなった気持であって少しも差支えありませんけれども、俳優の場合の偉くなり方というものには、非常にまた微妙な警戒が必要なのです。何故かというと、他の職業であれば、偉くなれば偉くなったで、それ相応の扱いを社会がする。それ相応の扱いを社会がするのみならず、その当人の偉くなり方が少し変ならば、直ぐひっくり返されます。足下が直ぐ危くなります。他の社会は総てそうであります。文学の世界でもそうです。ところが俳優の世界では、その俳優が変な偉くなり方をしても、案外、当人に誰もなんとも云わないのです。これが俳優の場合、所謂変な偉くなり方をすることが多い最大原因です。そうして変な偉くなり方をした役者はどういうことになるかというと、それと同時に
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