俳優倫理
岸田國士

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)いつたい[#「いつたい」はママ]
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     1 俳優とは何か

 講義の題目は俳優倫理というのですが、俳優倫理という言葉は今日までどこでも使われた例はないと思います。この研究所で初めてそういう講義の題目を作ったのですが、元来、この種の問題に関して今日まで纏った意見というものは恐らく東西を通じて発表されてないだろうと私は思います。しかし、俳優を単に芸術家としてだけでなく、人間として論じた人は沢山ある。そういう議論を通じて見ますと、社会が俳優にいったい何を求め、又俳優をどういう風に見ているかということがほぼわかる。皆さんも既にお気づきのように、今日まで、日本でも、外国諸国でも、一般社会が実際に、俳優という職業を一種特別なもの、ほかのどんな職業とも非常に違ったものと見ているのです。
 そこで、芸術家としての俳優についていえば、立派な俳優となるためにはそれ相当の修業がいるのですが、俳優もまた一個の人間として、社会人として、そこに一つの自分を完成する途がなければならない。またそういう風にして、人間としての自分を完成することによって、一方芸術家としての自分をも育てあげることができるのだという考えから、ひとつ現代の新しい道徳というものを基礎として、私は俳優倫理という問題を考えてみたいと思っています。
 殊に現在日本ではいろいろな意味で、日本人の精神的な問題が研究されております。例えば、文学の方で申しますと、モラールの問題というものがある。モラールというのは在来の日本の言葉でいえば、道徳とか倫理とかいうことになります。この、文学の上で非常に重大に考えられているモラールの問題というのは、結局、文学を作りあげるためばかりでなく、今日の人間がどういう倫理観をもつべきであるかという、そういうことが非常に探求されているのです。俳優の仕事は一面に於て文学につながるものである。そして、同時にまた、今日の社会と関係をもっている。何故かというと、俳優の仕事の根本には、やはり人間の研究、人間生活を表現するということがあり、またそれと同時に、一般社会にどういう影響を与えるかという問題が含れているからです。
 そこで、俳優倫理の問題は、将来、俳優を志すものにとっても、またその俳優をふくむ一つの大きな共同作業である演劇全般にとっても、決して等閑視することのできないものなのです。なにしろ、俳優倫理という問題は、恐らく学問としての一つのちゃんとした形はとることができないでしょう。また、私が一年間講義をしても、それが纏るものとは考えていない。これはひとつ、是非皆さんと一緒にこの問題を考えて行きたいと思う。そこで、差当り私がここで受持つ時間を利用して、この俳優の倫理という問題を次のように分けて、みなさんにお話してみようと思います。
 先ず、いったい俳優とはどういうことをするものかという問題、俳優とはなんぞやということです。その次には俳優の天職、いいかえれば、俳優がおのずから与えられている所の使命です。第三には俳優の素質、これはいいかえると、どういう人間が俳優になるのに最も適しているか、また更に別の言葉でいいますと、俳優になる人間はどういう資格を具えていなければならないかということです。第四は俳優の才能、ここで素質と才能とはっきり区別しましたが、素質というのは、いわば、その俳優が俳優である前に既に人間として具えている一つの特質です。才能といいますと、その人が俳優になって、或は俳優を志して、そうして、その人の俳優という職業の修業過程に於て、即ち、俳優という職業の勉強をしながらそれを伸して行くところのその人の特色です。勉強によって、修業によってその人が身につけるところの一つの資格です。これが才能です。最後に人及び芸術家としての俳優の理想です。この五つの項目に分けてお話をしたいと思います。
 その前にちょっとお断りしておきますけれども、ここにおいでになる諸君をこうして見渡すと、年輩の上からいっても相当の違いがあるようだし、従って学校の程度なんかも随分違っているようです。それで、私の話は一体どこへ標準をおいて話をしたらいいかということを今日もみちみちいろいろ考えました。相当な年輩で上級の学校をでられた方を標準にして話せば、まだ若い中学校も終ってないという人には少しむずかしすぎる。又、その逆にするというと、これはまた程度の高い人には面白くない。それで非常に話がしにくいのですが、それは臨機応変に皆さんの顔色をみながら、なるべくみなさんの納得の行くように話をしていく、そういうことは余り巧くないのですが、そう努めるつもりです。
 ただ、解らないこと、或はいろいろな疑いが私の話で起った場合には、ちゃんと書きとめて後で質問してほしい。これは一つみなさんにお願いしておきます。そうしないで、漠然とこういう抽象的な話を聴きっぱなしにしておくと、なんにもならないと思います。ここで持ち出した問題については、もう一度自分の頭を使って考え直す、自分で納得の行くまでそれを考えた上で、更にその問題を段々押し進めて行く、発展させて行くということが、こういう精神的な問題を考える時には大事なのです。普通、倫理とか修身とかいうものがつまらないのは、先生がそういう話をする、それを聞きっぱなしにするからつまらないのです。だから、大概学校ではつまらないということになっている。われわれもそういう経験がないではない。そのつまらない話を引受けるのですから、それを別に面白くする方法はないのです。そういう学問は、結局、教師が喋って生徒が聴きっぱなしにすれば、どんな話でも面白くないものなのです。その問題については、それを聴くものめいめいが自分の頭を使ってその考えを押し進めていく。そうするとあるところにぶっつかってそれから先は進まない。進まないというのは自分に疑いが起るか、或はそれから先は自分の頭で考えられない一つの大きな世界が拡っているから、そういうことにぶっつかる。頭の出来てない人は打突り方が早い。頭のねれた人は相当奥まで入って行けるが、結局ぶっつかる。どんな頭の人でもあるところに行ってぶっつかる。そのぶっつかるまで自分が考えるということがこの精神的な問題を取扱う面白さです。ですから、それを皆さんに予めお願いをしておきます。
 それでは、俳優とはなんぞや、という問題から始めます。みなさんは俳優になろうという志望をもっておられる。してみると、俳優というのはどういうものだということに就いてはきっと考えていられるだろうと思います。実はここで一人、一人にその問題についてこっちから質問を出して、返事をして戴きたいのです。別にテストするわけでもなんでもないのです。ただ、そういう問題を一緒に考えるという意味で、自分の考えていることを自分で纏めて返事をして戴きたいのです。俳優とはなんぞや、その返事をきく前に、そういう問題について考える材料をみなさんに提供します。
 俳優とはなんぞやという問題は、これに答える方法はいろいろあります。今日まで、やはり俳優という言葉の定義というものがいろいろ出来ているようです。しかし、その俳優という言葉のただ定義だけでは、それぞれの俳優がどういうつもりで俳優を志したか、俳優になっているか、俳優という職業に従事しているかということは殆どわからないのです。これは一般に俳優というものの定義を通じてすべてそういう傾向があります。そこで、俳優とはなんぞやという問題をわれわれが考える場合は、俳優というのはこういうものだということを、ただ世間一般が考えているような考え方でなくして、寧ろ俳優の立場から、俳優というその地位に自分がたって、そうして俳優とはなんぞやということを考えなければならない。そこが非常に違うのです。例えば、俳優というのは舞台の上で戯曲のなかにある人物に自ら扮して、そうして演技によって観客にその人物の生活を再現して見せるものである、という定義がここにあるとする。そうすると、その定義はなるほど定義として、先ず大体に於て、俳優というものの性質をいい尽しているようです。しかしそれならば、そういうことのどこが一体面白くて俳優になっているかということは、それでは全然わからない。また、そういうことをすることが、一体どういう目的にそうのであるか、また、なんのためになるか、ということもわからない。人間が銘々いろいろな仕事をするためには、その仕事の目的というものがちゃんとある。そうしていろいろな仕事の性質をいい現わす場合には、それぞれの仕事の社会的目的というものがほぼいい現わされているのが普通です。例えば軍人は軍人としての一つの職業――これは軍人は自分で職業とはいっていないようですけれども、客観的にみれば、やはり一つの職業です――その職業について軍人はなんのために存在するかということは、社会的な仕事の面でちゃんとその目的が明瞭に示されている。俳優というものになると、舞台の上でということから始まる。或は劇場という所から始まる。この劇場なるものが、舞台なるものが、なんのためにあるか、それが切り捨てられていて、考えられていない。そこが私は、俳優という問題を新しく考え直してみなければならない大きな理由だと思う。劇場とか舞台とかが、この世の中にあるその理由までをひっくるめて、俳優とはなんぞやということを考えなければならない。これを、みなさんがその問題について考える一つの基礎として先ず云っておきたい。俳優が社会人として、文化の担当者として、往々にしてその自覚が疑われるということは、つまり、俳優とはなんぞやという問題について、俳優自身が徹底的な考え方を今日までしていなかったところにも確かに罪があると思う。また、世間一般も俳優とはなんであるかということに就いて、やはりそういうところまで考えてみなかった習慣が今日まで残っている為だと思う。そこで俳優とはなんぞや――俳優がこの世の中にあるその意味を、もっと大きなところから考えてみなければならない。それが一つです。
 もう一つその問題について考える準備として、いつたい[#「いつたい」はママ]芝居というものはどういうものであるかということです。その問題もまた今まで、芝居とは、或は演劇とは、という定義がいろいろ下されている。それらの定義が、やはり、芝居というのはこういうもの、演劇というのはこういうものであるという、その定義の下し方がやはり殆ど常に、それをただ単に他の芸術と区別するために作られた定義にすぎないのです。もう少しむずかしくいうと、美学的定義というものが非常に多い。例えば、美術ですが、絵とはこういうもの、彫刻とはこういうもので、或は音楽とはこういうものであるとして、それらの音楽とか美術とかに対立させて、演劇とはこういうものである、というのは美学的定義といえるのです。そういう定義に立って芝居というものを考えていると、おのずから、俳優というものについて考える時も、今と同じ言葉を使うと、つまり美学的な――俳優の仕事、或は演技というものの美学的地位、美学的な一つの目的というものしか考えられない。これがやはり私の考では非常に狭い。或は俳優の仕事というものを人間の立場から考えなくさせた大きな一つの原因だと思う。
 そこで芝居、或は演劇とはなんぞやということを考える場合に、やはりこの社会に、或は人類の間に、演劇、芝居がどういう風にして、なぜ、生れて来たか、そこまで考えなければいけない。そうして、その芝居というもののなかで占めている俳優の位置というものを考えますと、そこに初めて俳優とはなんぞやという問題が、舞台とか或は劇場とかいう、そういう一つの限られた場所から飛躍して、全人類のなかに於て占めている一つの俳優の地位というものが明らかにされてくる。そういうことによって、俳優というものの尊厳な一つの意義が発見されます。
 演劇史を少しよんだ人は知っている筈ですけれども、芝居がいったい
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