古い社会にどうして起ったかということを考える時に、無論芝居の原始的な古い起りというものは実際にはわからない。いろいろな研究の結果ほぼ推定できる、想像がつくという程度のものですが、しかし、まず、今日まで残っているいろいろな記録だとか、或は学者の研究した資料というようなものを通じて、今日ではほぼ見当がついている。それは、結局人間が芝居といえるようなものを始めたのは、一つの人間の集団生活、――人間が集って生活をしているなかで、その集団生活には常につきものであるところのお祭、そのお祭の行事として行われたものだということが推定される。つまり芝居とお祭というものが切っても切れない関係にあるということです。しかも、このお祭というのはいうまでもなく、宗教的なものです。即ち、人間が神を祭るということは、その集団生活の幸福を祈る、安寧無事を感謝する、或はその集団生活のなかに恐るべき不幸が来ることを惧れて、そういう不幸が来ないように神に祈る、そういう極く原始的な人間の感情の現われなのです。
 そういうお祭に行われた行事のなかに、この芝居というものの芽がふいている。それはどういう風にして芝居という形をとり出したかというと、神を祭る一つの集団、その集団のなかで、ある特定の人物が、――神と人間、つまり、民衆とその民衆が祭っている神との仲介者になる、そういう人物が、常に必要である。神と神を祭る人達の媒介をする人物です。これがお祭の一番根本的な形式です。神とその神を祭る人間の間に、その両者を結びつける一人の人間が選ばれる。即ち人間の祈りを神に伝え、神の思召を人間に伝える役です。そういう人間が選び出される。ですから、そういう人間は神の代りとなり、神様を自分が代表することになり、また同時に人間を代表することにもなる。つまり一人の人間が神と人間との二つの性格を自分の裡にかりに持つという特別な役目なのです。この役目が、その時代によって、或は民族によって、いろいろな形になっておりますが、この場合にはそれは聖職者である。つまり、日本の神道でいえば神主、キリスト教でいえば司祭である。その聖職者、つまり、神に仕え、同時に神の代弁者であるところの聖職者というものは、その仕事の関係、その仕事の性質上、自分は時としては神の心を心とすると同時に、人間の心を以てまた神に対している。これは一人の人間が、神と人間との二つの役を自分でもっているということになるのであって、この形がそもそも俳優というものの仕事を生み出す一番もとの形であると、今日では考えられている。
 そのお祭の中で、神と人間との媒介をする人間というものはどういうことをしたかというと、一般民衆を代表して神に祈りを捧げ、神を祭ると同時に、一般民衆の方に向って神の言葉を伝える――そういうことをしたのです。それが初めは民衆のなかから何か知れない特別の力を持った人間がそういう風に選び出されて来るのですが、やがてそれが一定した職業になって来る。そうすると、ここにまた一層、今日いうところの俳優的な特色というものがましてきます。俳優的な特色というものがどういう風にして増して来るかというと、その聖職者は、ただ単に神の言葉を伝えるだけでなくて、それが如何にも神の言葉であるかの如く、その人間は如何にも神そのものであるかの如き印象を一般の民衆に与えることが非常に大事であります。それが一つです。
 もう一つは、殆どどの宗教もそうでありますけれども、神の傍には悪魔がいる。ある時は悪魔の危害から脱れる為に神に祈る、或はまたある時は、神の怒りにふれて悪魔の手に委ねられる、という運命に一般の人間はあるものと信じられていた。そこで、その神に仕える所の聖職者は、ただ単に神の姿を一般民衆に髣髴として見せ、神の言葉を恰もそれが真実の神の言葉であるような印象をもって伝えるばかりでなくて、一方に於て、その神と対立する所の悪魔の姿をも一般民衆にまざまざと伝える必要があったのです。そこで、その聖職者は、一人でもって、時としては一般の民衆を代表する人間の姿となり、時には一般民衆に絶大な力をふるう神そのものとなり、また時にはその神と対立する所の悪魔の姿をさえも借りることがあった。その聖職者は、人間であると同時にまた神であり、悪魔であるという一人三役を演じることになる。
 これはさっき聖職者の職業的な必要からということを云いましたけれども、しかし一方こういうことがまた云える。職業的なという言葉を余り現代風に解釈してはいけません。即ちその聖職者が自ら神の名に於て一般民衆に接するということはどういうことかというと、それは決して今日いう所のいわゆる職業的必要からではなくて、それはまた同時に人類が本能として持っている自己の理想化ということの一つの現われなのです。自分に理想的な姿を与える、自分を理想的な姿に於て空想する、――寧ろ幻想するという言葉を使いたい――そういう一つの夢を抱いている、そういうものを自分の頭の中に描き出す、という、そういう人間の本能です。そういうことを実際にして見せる、自分でいろいろな欠点を持ち、いろいろな弱点を持っている人間、その人間がいわゆる完璧な神の姿として現われるということは、これは人間の一つの夢であります。そういう夢を悉くの人間は本能的に持っているものなのである。その夢を実際ある瞬間にでも実現することができる人間というものは、非常に選ばれた人間であった。そういう選ばれた人間が神と人間との媒介をなし得るのです。従って聖職者は、そういう人間の夢を豊富にもっていて、その夢を普通の人間にはでき得ない所まで実現し得る才能を持った人間であったのです。
 そこで次第に原始民族のお祭という形式が、複雑になり、進んでくると、お祭のなかに於ける芝居の最初の芽が段々伸び育って、お祭が複雑になると同様にその芝居というものも複雑になってくる。そうしてそこに、原始演劇というものの形がはっきり現われて来るのです。
 その原始演劇というものの形はどういうものかというと、唯一人の聖職者が一般の民衆に代って神に祈り、また自ら神の代理として民衆に接し、また時として悪魔の声をさえも、民衆にきかせるだけのことでなくなってきて、そこで、もっと複雑な仕組みが生れてくる。聖職者のいろいろな空想が、ある仕組みによって一般民衆に示されるということになる。
 ここで、簡単な例を挙げると、最初はこの聖職者は神に代って民衆に一つの神の言葉を伝えていた。ところがその神の言葉を更に註釈し、敷衍し、そして、それらに対してもっと現実的な効果をあげる為に、ここに一つの物語を仕組む。その物語を最も直接に民衆の目、耳に訴える為に、最初に自分が神の言葉を語り、悪魔の声を放っていたのが、それぞれここに、神に扮する人間を作り、悪魔に扮する人間を作り、神と悪魔とのいろいろな力に支配されている所の人間或は人間群というものをそこに作り出し、そうして一人一人の人間にそういう役をあてがって、そこに一つのスペクタルを作ってみせる。その場合、聖職者はその演出家であったのです。時としてはまた、そのなかのある役に聖職者自身も扮していた。この原始演劇の形は、勿論極く漠然とした記録によって、それを想像するのですけれども、しかし、これはややはっきりした形で残されているギリシア演劇の初期のものによって、そういう所から演劇が起って来たということがほぼ想像される。これは今日でも、例えば、日本の演劇の起原を考えてみる場合に、外国劇、支那劇、と或は南洋諸島の原始演劇というようなものの影響が考えられると同時に、日本の田舎などに今日民俗芸術として残っている演劇形態、というものが有力な手がかりとなるのですが、そういう演劇の形からも、やはり同じようなことが推論されるのです。
 そこで、今話したような原始演劇、演劇の起りというものを尋ねて見て、芝居とはどういうものであったかということについて、先ず一つのはっきりした結論が生れる。つまり芝居とは人間の集団生活に於て、その集団の一つの共通な心が求めている幸福の祈願であります。人類の一つの集団が集団の心として求めている生活の歓喜であります。それが昔はその集団のお祭という形で起り、そしてそれが、次第に時代が進むに従って、その集団の共通の娯楽という形になってきている。集団がそれによって共に娯しむという、娯楽という形になってきている。共に娯しむ娯楽というところに演劇の一番本質的な意味があったのです。今日からみると、芝居が好きだとか好きでないとか、そこへ行くとか行かないとかいうことは、銘々の個人の趣味といえるのですが、これが常態となったのは極く近代のことで、一つの集団全体が演劇を作り出し、その演劇を楽しみ、その演劇によってその集団の幸福感というものを満足させるということは、また、一人の例外もなく参加することによって行われたということは、非常に重要なこととして考えなければならない。集団生活の幸福感というものが、その行事たるお祭によって象徴されるというのは、つまりそこなのです。
 そもそも芝居というものが元来そういうものであるとすると、その芝居をする本体というのは、俳優であって、俳優はお祭の聖職者なのです。これを別の言葉でいうと、俳優は、すべての人間に代って最も近く神のそばにあり、それと同時に最も近く悪魔の位置にあるものなのである。この、神に最も近づき、また時とすると、自分で悪魔の声を放つということは、これは人間はすべて誰でも例外なく本能として持っている一つの傾向なのです。いい換えると、俳優とはすべての人間が本能的に夢想している一つの行動を身を以て行ってみせ、それが現実の仮感に訴える、そういう職業なのです。
 この定義めいたものは、俳優芸術というもののごく根元的な純粋な形を先ずここに引っ張り出して、それに与えた定義なのですが、しかし、そういう精神が次第に失われつつあるということが一方にある。その失われつつあるということは、今日の俳優というものに対する一般の認識が非常に誤ってきた原因であります。いずれその問題に付いては最後に話しますけれども、俳優の理想というものは俳優の本来の姿を取戻さなければいけない。現在おかれているところの、現在あるがままの俳優の姿というものは非常に歪められた、また一方からいうと、非常に変質的になっているものなのです。これに注意しておきます。
 さっき現実の仮感という言葉を使いましたけれども、この仮感という言葉はこういうことです。わかり易い例をあげますと、最も単純な芸術の形態で最近発達したものにラジオがあります。ラジオでは一つの物語なり、或はラジオ・ドラマなどをきかせますが、ラジオは元来声だけできくものである。音響だけを頼りに一つの現実にふれる訳です。それ故、一面からいえば、ラジオ・ドラマというものは、音の効果、或は声の効果というものだけを使って、そこに一つのものが仕組まれたように考えられている。しかし実際はそうではない。もし単にそういうものであれば、ラジオ・ドラマというものは非常に単調で味いの浅いものになります。むしろ、それ位ならば純粋の音楽をきいている方がいいようなものです。ところが、ラジオ・ドラマというもの、つまり人間が肉声によって一つの物語を伝えるということは、必ずしも耳だけに訴える感覚ではなくて、同時に人間のあらゆる他の感覚、殊にラジオで一番縁の遠いように思われる眼の仮感というものに訴える要素が十分なければならないのです。つまり、声をききながら、ものを見ているような視覚、眼の仮感に訴えることが第一番です。ある女の人の声をきく。ラジオですからその女の人は勿論なんにも見えない。しかし、その女の人の唇の動き、その唇の間から見える歯のならび、その女の人の息づかいから感じられる鼻の微妙な動き、声の調子から考えられるその人の眼つき、そういうものが仮感として、聴いているものの脳裡に浮び出て来なければいけない。そういうようにラジオ・ドラマというものは書かれているし、また語らなければいけないのです。だから耳に訴える要素だ
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