けで以てラジオ・ドラマが出来ているという単純な考え方は、この芸術の仮感というものの重要さに気がつかない結果だといえます。
そこで俳優芸術に於ける現実の仮感ということをいいましたが、舞台に於て演じているところの俳優の演技は、これは現実に於て生活している一人の人間の動きなり、言葉なりというものではない。しかし、恰もそれであるかの如き感じ、そういうものが同時に芝居をみるものの心の中に湧かなければいけない。見ているものの精神の中にそういう状態が惹起されなければいけない。俳優の演技がそういう状態を惹起する力を持っているのは、つまり、俳優の演技の中には現実の仮感というものがあるからです。これを略して現実感ということをいいますが、文学などでいう現実感――リアリティというものとちょっと違いがある。現実感によって呼び起されたところの印象ということが云い得ると思うが、現実感そのものではない。しかしまた、これはまるで本当のようだということとも違う。俳優の演技というものは実際の現実の生活のなかの本当のことと全然違わなければいけない。現実の生活に本当にあることは、これは芸術でない。俳優の演技というものはそういうものを更に芸術化したものでなければならない。その芸術化するということによって、この仮感が生れて来る訳です。それはまた恰も現実の如しという感じとは違う。恰も現実の如しということでは満足はできない。それならば現実をみればいい。現実に於ても見られない、舞台の上で俳優によって演じられている、その演技によって初めて受けるところの感銘、そういうものが即ち芸術なのです。例えば、舞台に於て泣く、本当に泣いているということは別に巧いということではない。それは物真似です。これも俳優の才能というところで、物真似と俳優の演技の違うところを話そうと思います。実際はあんな風に泣くことはない。実際泣いているように見えるよりもっと泣いているということを見物の眼と耳に沁み込ませるものが俳優の演技です。本当に泣いているように泣いているというのでは、これは俳優ではない。
そこで、この俳優とはなんぞやということについて、現在に於ける一般の状態からして俳優とはこういうものだという風に考えることは、別段今日重要なことだとは私は思わない。むしろ元来こうあるべきものであるということこそ、俳優とはなんぞやという問題に最もよく答え得ることなので、その点を忘れた所謂俳優とはなんぞやという問題への回答は殆どなんら価値はない。少くとも私の話を通じて、その原則を頭においていただきたい。そうして初めて、現在の演劇の問題、現在の俳優の問題にふれて行くことができ、そこに初めてみなさんの立派な態度というものが生れてくるわけです。
2 俳優の天職
次は俳優の天職という問題です。
先程いいましたように、俳優というのはもともと人類のお祭というものを司る一つの神聖な職業であったのです。最初の精神はそういうものでありましたが、次第に社会の移り変り、人間の所謂智慧の発達というようなことにつれて、世の中の仕事がいろいろ複雑化して、そこに分業が行われるようになって、俳優が所謂神を祭る仕事と段々に分れてきた。つまり神主とか司祭とか或は僧侶とかいうものと離れて、俳優というものが分業になって来たわけです。
分業になると、そこから俳優がかつては神を祭る職業であったということが段々忘れられて来て、反動としてもっとも人間的な姿として俳優が神の祭壇から遠ざかったのです。その神の祭壇から遠ざかるということはいわゆる信仰を失うということではなくて、つまり職業として宗教に対立する立場に立った。最初は神を祭る場合に、そこの行事として行われた演劇というものが、結局宗教から排撃される、宗教そのものから非難される、つまり宗教の敵であるかの如く見做された時代が、過去の歴史に於て屡々あります。ヨーロッパでは十六世紀にそういう傾向が始っている。一方に於て十六世紀には寺院を劇場として芝居が演じられたことがあるのに、それとさほど隔っていない時代に、寺院から全く演劇が排斥されたことが事実あります。日本の芝居の歴史を考えて見てもやはりそうなので、所謂出雲の於国が神社の巫女であって、しかも、その神社の祭礼の行事として、京都で日本最初といわれる歌舞伎を――今日とまるで形は違いますけれども――やった。そこには神社との密接な関係があったのでありますが、次第に徳川時代になって、歌舞伎芝居というものが全くそういう宗教とは縁のないものになってきた。そういう時代は芝居というものについて全くその本来の姿というものが忘れられている時代だったと私は思う。
これを新しい言葉で、新しい時代にあてはめて、芝居というものを考えてみると、今日一般の人達が芸術に求めているものは、恰も原始民族が宗教に求めているものと非常に相通ずるところがある。今日一般の信仰が衰えて芸術が神に変ったということはいい得ないが、古代に於ける宗教というものの精神と近代に於ける芸術というものの精神とは相通ずるものがある。近代に於ける芸術理論というものから、古代の人が宗教的祭典のなかに求めていた一つの集団としての喜び、悦楽、そういうものが今日どういう形で残っているかということを考えますと、古代の祭典のなかに生れた芸術というものが、今日その形を段々変えておりますが、芸術の精神ということに就いては少しも変っていない。そこで、嘗て古代の民族が神に祈った如く、今日の人間は心の中に秘めた一つの祈願というものを何によって満たしているか。勿論、お寺詣りをする人、或は教会に通う人といろいろあるでしょうが、しかし古代に於てはみられなかった「芸術」というものを自分の生活の一つのよりどころとする、云いかえると、精神的な慰安、精神的な糧とすることは、丁度古代の民族が神に祈って自分の心を慰め、自分の心に何か力を与えられようとしたことと実にその状態が一致しています。
今日では、この芸術の形態がまた昔と違ってきて、個人個人でその芸術を鑑賞し、娯しむという、そういう芸術の形態が非常に発達しました。例えば、文学でも一人で以て本を読むということが先ず普通です。音楽でも例えばレコードをかけるとか或はラジオであるとか、どうかすると自分の部屋で自分だけで娯しむということが、芸術を楽しむ娯しみ方に今日ではなっております。そういう芸術の形が現在は発達しておりますけれども、しかし、これは近代に於てそういう形に発達したのであって、元来文学でさえも、昔は大勢が同時に娯しむという形で発表されていた。つまり、物語の作者は大勢の聴き手を前にしてその物語を自分で語った。詩人は自分の作った詩を大勢の聴き手の前で朗誦した。場合によっては音楽の伴奏をつけることもある。美術なども同様です。昔は個人の住宅の室内を飾る美術品も勿論皆無ではありませんけれども、多くは公衆の寄り集る所、或は公衆の眼にふれる場所を装飾する為の美術品というものが第一位を占めていた。ところが次第に美術というものは、建築を除いて、多くは個人的にそれを娯しむということに今日ではなってきました。
ところが、演劇だけはあくまでも集団としてこれを鑑賞する形のまま残されている。勿論ギリシアとかローマとかいう時代の劇場と近代の劇場とは、その収容人員とか劇場の構造という点では非常に違ってきた。昔は非常に解放的であったのが、今日ではどちらかというと閉鎖的になってきた。別の言葉で云うと、昔は露天でいわゆる屋外的趣を持った一つの集合場所であったが、今日では一つの屋根のある建物のなかで、どちらかといえば室内的なものには変って来ましたけれども、ともかくも集団として娯しむ芸術として、殆ど唯一の名残を止めているのが演劇であります。従って今日の演劇は他の芸術に比べて、集団で鑑賞する、或は逆にいえば、多くの人々を同時に娯しませる、多くの人々に同時に訴える特殊な芸術として、もっとも昔のままの姿を完全に伝えている芸術だといえる。そうしてこれが演劇の恐らく根本的に他の芸術と違うところである。
従ってその芸術をいとなむというその仕事の中で、俳優はやはり観衆という集団を相手としている。恰も原始民族が一つの群衆となって神を祭った如く、今日の観衆は舞台という祭壇を通じて芸術の神、ミューズの声をきこうと願っている。そのミューズの声を昔の聖職者の如く民衆に伝えるのが即ち俳優なのであります。それと同時に俳優は今日もなお、一つの劇場に集るところの大衆の、人間としての本能、即ち先程もいいましたようにいろいろな意味に於ける近代人の夢を、俳優の演技というものを通して初めて現実の仮感として自分の身に感じることが出来るのであります。いいかえると、俳優はそこにいる大衆のすべての一人一人に代って、それらの大衆の夢を育てている魔法使です。
そこで、人間というものを先ず考えなければならない。人間の夢と私はいいましたけれども、人間の夢というものは実に厄介なものである。非常に美しい夢もあるけれども、しかし、美しいばかりが夢ではない。人間は複雑である。その人間が複雑であるほど夢も複雑なのであります。人間は神に近づこうということばかりを夢想しているのではない。人間は自分にいろいろな弱点をもっている。そして、そのいろいろな自分の弱点を、ある時は否定し、ある時は肯定し、ある時はそれを抑圧するけれども、ある時はそれを利用する。人間は様々の欲望を様々な形でとげようと望んでいる一つの動物なのです。そこで人間というものを必要以上に美しく考えることはない。人間の本来の姿は美しくもあり醜くもある。非常に神々しくもあり、非常に悪魔の如くでもある。また同時に優しい所もあり、虫けらの如くきたない所もあるのです。そういう複雑な姿をもった人間の夢はなんでありましょうか。これは必ずしも美しい夢ばかりではない。神聖な高い夢ばかりを描いているのではない。そこで、俳優が自分の仕事を真面目に考える時に、よくそれを分析してみる必要がある。例えば、ここでもし人間の夢というものが非常に美しい神々しいものであるならば、俳優は決して舞台の上で悪魔の役をしたくはないし、また人間の夢が非常に贅沢なものであるならば、俳優は舞台の上で一つの苦痛なり悲しみなりの表現というものをするのを決して楽しいと思わない。しかし、人間の夢というものは、今云ったように、複雑なのであります。そこで人間は、自分が悪人であったら、或は自分が非常に大きな苦痛を味ったらと、そういうことを空想することの快感というものを持っている。何故そうであるのかというと、それは結局自分は現実の生活に於てそうでありえないという決定的な事実に基づいている。現実の生活ではそうありえないということを、ただ空想の世界に於てだけそうありうることが、人間の夢なのです。そこが楽しいのです。一つの道徳論としては、勿論そういう人間の夢を批判する余地はあります。そういう夢を抱くことが果して正しいかとか、果して人間としてけだかいことであるかとか、そういうことの批判はあります。しかし、事実として人間の赤裸々な姿を考えた場合には、人間の一面にそういうことがあることは決して忘れてはいけない。つまり人間は神の心を宿し、同時に悪魔の心を宿し得る。神であると同時に悪魔である。神であると同時にということはいい過ぎかも知れませんが、神の一面をもっていると同時に悪魔の一面をも持っている。そこに人間の面白さがある。そういう面白さというものがつまり芸術を生み出すのです。
芸術はある意味で人間の研究である。人間研究のメスはその人間の二つの面に容赦なく加えられなければならない。容赦なく加えることで初めて人間研究はできる。
そこでもう一度前にかえりますが、俳優の天職というのは、そういう人間の姿を普通の人間が現実の生活に於てはいろいろな事情、いろいろな条件でそれを現わすことが出来ない、満足させることが出来ない、そういう人間の羨望をいろいろな機会にいろいろな形で俳優は身を以て舞台の上でそれを示す。それを示す
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